ケータイ辞書JLogosロゴ 大橋村(近世)


福岡県>行橋市

 江戸期〜明治22年の村名。仲津郡のうち。小倉藩領。国作手永に属す。村方・浦方・町方からなる。村高は,「正保国絵図」1,440石余,「元禄国絵図」1,158石余,「天保郷帳」2,424石余,「旧高旧領」2,128石余。細川氏時代は蔵納地で,元和8年の家数195・人数399(男233・女166),牛18・馬22,庄屋・浦庄屋・肝煎・鍛冶・坊主などがいた(人畜改帳)。享保飢饉の餓死者は村方436・町方217(開善寺過去帳)。神社は,字神田の鎮守正八幡神社,字溝添の水神社,字中町の貴船神社,字下正路の貴船神社,字西町の若宮神社,字古辺野の宗像神社,字中ノ新地の今崎八幡社,字金剛丸の多賀社,字中町の稲荷神社。正八幡神社は,草野村の正八幡神社の分霊を寛永年間勧請したもので,当村ほか宮市・小辺野両村の産土神という(京都郡誌)。寺院は,字川越の曹洞宗普門寺,字新町の黄檗宗養徳院,字東町の曹洞宗禅興寺・真宗本願寺派浄連寺,字古辺野の曹洞宗安楽寺,字中町の真宗大谷派旧縁寺,ほかに字下小路の大師堂。普門寺は享保3年創建,明治11年日蓮宗身延派に改宗。養徳院は藩主小笠原忠真の側室永貞院の父母の菩提を弔うため,法雲が開基となり企救郡大島村に創建され,この地に移転。禅興寺はもと善光寺と称した浄土宗寺院であったが,万治元年改宗した。境内には書家牧野桂叟の墓がある。安楽寺には俳人蓑笠庵(井上清助)の句碑と枯野塚がある。浄蓮寺は,もと大谷派で浄善寺2世の子良秀の開基といい,正保年間に改派した。旧縁寺は,馬岳城主長野長右衛門正直が出家して開創となったという。延宝2年,井上吉左衛門が月6回の薪市と1軒の酒場開業を許されてから当村は発展し,町並みもできたという(豊橋柱)。「豊前国志」には「大橋町爰は商家多く,町割をなして繁昌の地也,享保の頃迄は大橋村として在郷にて有しが,今賑しき所となれり,昔此辺に小辺野といふ古書に出たる所也と聞く,川を堺ひ行司と相対して,此所富多し,よき市町也」とある。享和2年菱屋平七の「筑紫紀行」には「大橋町に至る。竪横に家三百軒計あり,町の中程に郡境のしるし立り」とある。文化7年伊能忠敬が当村を測量した。野田成亮の「日本九峰修行日記」文化10年10月19日条には,「町入口に山伏住宅の由聞きし故立寄る,折柄留主也,隣家に休息し居る内帰宅あり,然る処,先年醍醐の御殿御内役僧,吉祥院巡国の時分随身したる寛盛院と云ふ山伏也,是れはと云ふて休息す」とある。文化10年8月9日には大火で住家270余軒が焼失。同11年6月16日には大雨による洪水のため池・川・田畑の破損おびただしく希代の異変であった(中村平左衛門日記)。天保9年4月10日の火災では居家・稲家が19軒焼失した(倉府見聞集)。天保14年寺子屋蓑笠庵開設,教師1,習字師匠井上清助,生徒125(男90・女35),学科は筆道と読書,慶応元年廃業(県教育百年史)。元治元年大橋茶屋で塾開設(京都郡誌)。庄屋末広茂信は,寛政年間以後の凶作と悪疫の流行に村民生活が困窮,死者も出て離村する多くの者を見て,金1,000両を借り,共有田20町余を購入し,5年で返済して,のち利益金を村人の納税にあてた(同前)。領主小笠原氏の巡視のための休息・宿泊所(御茶屋)があり,小字名に御茶屋・御茶屋下がある。慶応2年8月の一揆で,町家は軒並みに荒された。明治3年の戸数は420・人口1,850(男916・女934)。同11年の戸数は農業179・商業209・雑業83。明治3年御茶屋跡に藩校豊津育徳館分校大橋洋学校を開設,教職員10,生徒24,同4年オランダ人教師フハン・カステールが着任(藤田弘策日記)。小学校は,明治5年時習小学校創立,生徒155(男120・女35),明治8年大橋小学校と改称(県教育百年史)。同11年第87国立銀行開業,資本金8万円,紙幣4万円の発券銀行だったが,同20年本店を小倉に移し支店となった。明治16年大橋電信分局開設,のち行橋郵便局に合併。明治15年大橋村消防組創設(行橋市史)。戸長役場があった。同22年行橋町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438912
最終更新日:2009-03-01




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