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「小田村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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小田村(中世) 南北朝期に見える村名筑前国夜須郡のうち現在の夜須町東小田から筑紫野市西小田にかけての地域に比定できる建武3年3月,多々良浜(福岡市東区)の合戦で菊池武敏を破った足利尊氏は大宰府に入り,この直前に有智山城(太宰府市)で武敏に攻められて戦死した少弐貞経の追善のため,大宰府安養院において諷誦を修し,その菩提料田として筑前国夜須郡小田郷を同院に寄進したという(歴代鎮西志所収文書/天満宮史料11)安養院の名は安楽寺(太宰府天満宮)の諸堂のうちにも見られるが(安楽寺草創日記/5),この安養院は鎌倉前期に少弐氏の祖である大宰少弐武藤資頼が建立したという安養院と考えた方が少弐氏との関係からみても妥当であろう(歴代鎮西要略)当村は夜須荘内に含まれているが,当時,同荘は少弐氏(左近将監入道宗祥)の本領となっていた(筑紫古文書追加/天満宮史料11)したがって尊氏が当村を同院に寄進したというのは不自然でもあるが,おそらく彼は少弐氏の上級権威者として同氏による寄進を安堵したのであろうついで貞和7年(正平6年,観応2年)正月には同院雑掌良賢が当知行の散在寺領に対する安堵を求め,その中に当村の名が見える(太宰府天満宮文書/同前)なお,安養院雑掌良賢申状の裏に外題安堵を加えたのは,その年号からみて,足利直冬であったとみられるのちに当村は東西に二分され,天正年間には東小田村が夜須郡に,西小田村が御笠郡に属している(天正年間指出前之帳)なお,甘木市内にも小田があるが,それは近世以降下座郡内にあり,夜須郡内の夜須荘にあった小田郷(小田村)とは別のものではあるまいか |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小田村(中世) 平安末期から見える地名... |
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小田村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小田村(中世) 鎌倉期に見える村名但馬国養父【やぶ】郡大恵保のうち円山川中流域近世の上小田村,現在の八鹿【ようか】町上小田に比定弘安8年の但馬国大田文に「小田村 四反〈地頭女子等,女子分〉」とある内訳は奈良弥二郎妻女2反・伊佐十郎妻女1反・箕田女子分1反で,大恵保の地頭肥塚氏の女子らが分領していた当時は現在より円山川の流路がずっと西寄りであったため,対岸の与垣【よがい】村(現八鹿町坂本のうち)に比して耕地が少なく,背後の山から流出する乏しい谷川水で灌漑できる程度の田地しか存在していなかったとみられる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小田村(中世) 戦国期に見える村名若狭国三方郡山東郷のうち天文12年7月9日の山東郷内宗景名并所々買得目録(田辺半太夫家文書)に「一,畠〈壱処〉同(在所)小田摠庵前,同(沽主)〈倚竹庵万太夫〉」,「一,畠参段 同(在所)小田武射田 同(沽主)佐田村百姓中」とあり,田辺又四郎の売得地を武田氏信豊が安堵しているさらに永禄4年5月4日,武田氏奉行人の勝長は「山東郷小田村」における宗景抱分を田辺又四郎の子孫に安堵している(同前)現在,三方郡美浜町のうちの太田に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小田村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小田村(中世) 南北朝期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」