ケータイ辞書JLogosロゴ 遠賀荘(中世)


福岡県>岡垣町

南北朝期〜戦国期に見える荘園名筑前国御牧【みまき】郡(遠賀郡)のうち「訂正宗像大宮司系譜」によれば,文治5年源平合戦の軍忠の賞として宗像大宮司氏国は源頼朝より遠賀荘の地頭職を与えられたというが,にわかに信じがたい(宗像郡誌中巻)下って,嘉禎4年7月10日の将軍家政所下文案によれば,源(香月)助経は父定経より遠賀新荘の内の香月郷の地頭職を譲られ,これを将軍頼経によって安堵されている(麻生文書/鎌遺5270)この香月郷は香月氏の根拠地で勝木荘という名称も見えることから,遠賀新荘は遠賀荘と別個のものであると考えられるしかし鎌倉期には遠賀荘が存在し,それに対して新荘の名が付けられていたことは確実である遠賀荘が確実に見えるのは南北朝期以降である,観応2年11月2日の足利尊氏袖判下文によれば,足利尊氏は足利直冬を奉じて敵対した少弐頼尚の所領の遠賀荘・宗像【むなかた】西郷・豊前黒田荘を没収し,勲功の賞として大友氏泰に宛行っている(大友文書/南北朝遺3652)一方,翌年の正平7年正月16日,少弐宗祥は亡父少弐貞経(頼尚の父)の本領注文を幕府に提出したが,これに対して尊氏は義詮にこの件を処理するように命じている(筑紫古書追加/大日料6‐16)この注文の中に筑前国の守護職に付属した所領として「遠賀庄 宗像西郷 夜須庄 原田庄」が見えるが,すでに遠賀荘・宗像西郷は大友氏の所領となっており,さらに文和3年2月12日には,幕府は当時九州にあった一色直氏をして,観応2年11月および同年12月の下文に従って,遠賀荘以下の頼尚の闕所地を大友氏泰の弟の氏時に与えている(大友文書/大日料6‐18)ところで,室町期の文明10年8月日の仁和寺知行目録に「一結 遠賀荘」とあり,当荘が仁和寺領であったことを推測させる下って,戦国期の天文22年(21年か)8月の日付をもつ宗像御代寺社武家知行帳によれば,遠賀之衆として支配下の90名の歴名とおよそ240町余の田積が書かれてあるこの遠賀之衆とあるのは天正13年の分限帳と比べれば明らかなように遠賀荘衆のことである(神道大系神社編宗像)永禄3年2月の瓜生益定の遠賀荘山田郷惣田数辻注文によれば,当荘内の山田郷は田数71町2段小あった(宗像神社文書/県史1‐下)この年,前年に筑前国等の守護を兼ねた大友氏に攻められて大島に退いていた宗像大宮司氏貞は,遠賀荘・赤間荘以下の旧領を回復し支配下においたが,遠賀荘には「限芦屋津広渡村」という注記が付されている(宗像記追考/宗像郡誌中巻)また同年3月に氏貞は,遠賀荘天野郷内の給地計5町6反余を竹井重頼の馳走に対し加恩地として領知せしめ,社武役等を勤仕することを命じている(竹井文書/県史1‐下)さらに氏貞は永禄年間に遠賀荘の検見を行うことを命じている(新撰宗像記考証/宗像郡誌中巻)これらのことからして,少なくとも永禄年間以前に遠賀荘は宗像氏の支配下にあったことは明らかであるが,前代とのつながりは明らかではない宗像氏の遠賀荘支配は天正年間にもうかがわれ,同3年宗像大宮司氏貞は吉田彦三郎に対し,遠賀荘吉木郷1町7反を含む父の知行の相続を安堵している(新撰宗像記考証/宗像郡誌中巻)天正10年の遠賀荘御米注進状によれば,貢租高60石2斗5升のうち41石8斗2升6合が同地の高蔵宮年中御神米にあてられ,残り18石4斗2升4合が社納されている(嶺家文書/県史1‐下)また同13年の宗像大宮司分限帳には遠賀荘衆として89名の歴名とおよそ579町6反の所領が書きあげられている(宗像郡誌下巻)遠賀荘の荘域は少なくとも宗像大宮司支配時については,その荘内に天(手)野郷・山田郷・吉木郷を含み,芦屋津・広渡村を限りとするところから,現在の岡垣町の手野・吉木・高倉・山田を含み,一部芦屋町・遠賀町に及ぶ範囲であったと推定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439113
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ