ケータイ辞書JLogosロゴ 海津村(中世)


福岡県>高田町

 戦国期に見える村名。筑後国山門【やまと】郡のうち。年未詳10月17日の田尻氏知行坪付および明応8年12月13日の大友政親判物によれば,文明〜明応年間頃大友氏が田尻氏に与えた知行地306町の中に海津66町があり,永正5年11月3日の大友義長袖判知行坪付や天文2年4月28日の大友義鑑袖判知行坪付などに見えるように,以後代々田尻氏が知行した。天文16年に田尻親種が豊後府内に参府した時は,海津より人足17人を徴発しており,また年月日未詳の海津村百姓中公物請文によると,領主田尻氏に対して真籾込3斗入60俵を請け負っているが,その交名には伊豆守,四郎左衛門尉,治部左衛門尉,治部丞などの名があり,それぞれ田尻氏の被官化した在地の名主層と思われる。天正7年田尻鑑種は肥前竜造寺氏に帰順したが,年月日未詳の田尻鑑種本領村数等覚書に当地が見えるので,竜造寺氏の安堵を受けたものと思われる(以上,田尻文書/佐賀県史料集成7)。天正15年以降は立花宗茂の知行地の一部となり,文禄4年筑後国知行方目録(立花文書/県史資料4)では,村高1,594石4斗6升とされている。なお南北朝期の康永2年に南朝の中院侍従・菊池武茂らが立籠った竹井城は,同年7月4日の荒木家有軍忠状によれば竹井萱津城とも呼ばれているが(近藤文書/県史資料10),この萱津は竹井村に隣接する当地に比定されている。このことからすると海津の古名は萱津かも知れない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439119
最終更新日:2009-03-01




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