ケータイ辞書JLogosロゴ 金田荘(中世)


福岡県>金田町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。豊前国田川郡のうち。嘉元2年幕府は二階堂泰行(法名道忍)に「金田庄内金田村」の地頭職を与えている(二階堂文書/豊前国荘園史料1)。二階堂氏は相模国を本貫とする関東御家人で,建長年中薩摩国阿多北方の地頭職を与えられ,元寇を機に下向土着した。二階堂氏以前には弘安8年の岩門合戦によって所領を没収された金田六郎左衛門尉時通があるが(比志島文書),この金田氏が当荘の開発領主で,当時の地頭であったかもしれない。金田村の地頭職は嘉元2年以後,半分あるいは4分の1が二階堂氏の庶子に分割譲与され,南北朝末期の承徳3年まで二階堂氏歴代の当知行が確認できる。永徳3年4月23日,二階堂直行(禅桂)が子息行貞に「金田村半分」を譲っているが,この頃のものと推定される年欠4月29日付の左兵衛尉泰季副状案によれば,この頃,直行当知行の金田村は坂本三郎の違乱を受けていた(二階堂文書/豊前国荘園史料1)。この間の領家は久我家。貞和2年8月15日には宰相源雅顕が「金田庄領家職」を子息雅茂に譲っている(福岡市立歴史資料館所蔵青柳種信資料所収文書/南北朝遺2233)。この領家職はその後,応安2年10月「相伝の号あるも実なし」として侍従源雅宗から光明院に寄進された(久我文書/豊前国荘園史料1)。荘域は現在の金田町域から赤池町および方城町の一部を含む地域が想定される。元亨元年4月15日,金田荘直人らにあてた前上野介某奉書には,二階堂行雄(行存)の請所として荘内の「弁城・草場・吉松・神崎」を挙げている(二階堂文書/同前)。また,「二階堂文書」中には正平11年の金田村田畠注文・作田取帳・名々分帳・給分坪付などの土地台帳が残されている。それによれば金田村内は黒王丸・久永・南木久永・久永用介・成松・末里・生得・正弘・市丸・助憲・宮得・末成・成末・五郎丸・行元・末富などの名【みよう】に編成されており,この中には現在も小字名に残っているものがある(田川市史)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439266
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ