ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲舟津村(中世)


福岡県>三橋町

 室町期に見える村名。筑後国山門【やまと】郡のうち。蒲船津とも書く。文明16年3月24日付田尻家譜に豊後大友氏の筑後詰代官であった田原親宗が田尻恒種に与えた預ケ状があり,山門郡蒲船津の内100町とある。(大日料8-16)。また,同年9月27日には蒲船津百町の代所として東久米(末か)40町を預けている(田尻家譜/大友史料12)。文明年間すでに田尻氏の支配下にあった蒲船津村の状況がわかる。大友氏の筑後支配は応永23年の大友親著が筑後守護職安堵を受けて以来であるが,蒲船津は以後戦国期を通じて大友・竜造寺両勢力の中で揺れ動く筑後勢蒲池・田尻氏の間を転々とする。天正10年蒲舟津城主蒲池益種は竜造寺勢に敗れ,竜造寺の将百武志摩守がこれに替わり,次いで中野甚右衛門の時天正12年に大友軍戸次道雪との間に激戦があった。道雪はついに蒲舟津城を抜くことができず,柳川に籠る竜造寺家晴を攻めることができなかった(肥陽軍記・普聞集/博多史料6)。この城は柳川城防備上の要衝であったろう。文禄4年12月1日付筑後国知行方目録に「八百六拾五石四斗四升 蒲舟津村」とあり,立花宗茂の領国内であるが(立花文書/県史資料4),文禄5年4月28日付で親成(宗茂)が上妻次兵衛宛に蒲舟津村の内100石を扶助している。大友氏と上妻氏の関係を継承しようとした立花宗茂の大友嫡系意識ではなかろうか(上妻文書/同前6)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439345
最終更新日:2009-03-01




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