ケータイ辞書JLogosロゴ 上高屋村(近世)


福岡県>犀川町

 江戸期〜明治22年の村名。豊前国仲津郡のうち。小倉藩領。節丸手永に属す。村高は,「正保国絵図」510石余,「元禄国絵図」540石余,「天保郷帳」745石余,「旧高旧領」747石余。元和8年の家数111・人数175(男107・女68),牛23・馬11(人畜改帳)。享保飢饉の餓死者は200人,ほかに蔵持山65人(開善寺過去帳)。字神山の蔵持神社はもと蔵持三所大権現鞍用寺,蔵持山宝仙寺と称せられ,天明年間の寺院聚録では「修験 上高屋 蔵持山宝船寺 城台坊」となっており,天台修験の道場,英彦山六峰の1つであった。しかし,「太宰管内志」には「蔵持山ハ仲津郡横瀬村ニアリ」とあり,明治31年の「県名所図絵」でも表題は「東犀川村大字上高屋」としながら,御手洗・御旅所・社掌屋敷などがすべて祓川谷の横瀬村側に描かれている。「京都郡誌」も横瀬村側が正面と記す。「豊鐘善鳴録」には平安初期の僧静暹の霊験物語がある。「京都郡誌」によると宝治元年在銘の十一面観音半身像(懸仏か),永享3年・宝徳元年在銘の鍔口があったという。また仁治2年在銘の木造十一面観音像があったが,明治33年の大火で棟札等とともに焼失したという。山内に49窟の霊場や五輪塔など石造物が多く残る。また山中96坊,うち法頭城台坊以下の宇都宮氏五坊と称するものがあったというが,明治初年城台坊以下18坊は還俗して蔵持神社となった。字宮首の橘八幡神社(橘八幡宮)は,社記によれば延喜8年と建暦元年の創建説がある。「宇佐大鏡」によると,保安2年の古社とある。字ミテラの念信寺は真宗大谷派,天正15年開基と伝える。字ドウメンには地蔵堂,字飯塚には観音寺,字平岩には西蓮坊があった(京都郡誌)。慶応3年頃香春【かわら】藩士13家が村内に入居(県史料叢書)。明治3年の戸数115・人口523(男263・女260)。同18年の地積は田62町余・畑6町余・宅地4町余(京都郡誌)。小学校は明治6年創立し,化成校と称した。同7年の教員は池田和三治,生徒数は男37・女9。同15年高屋小学校と称した。のち生徒数は男63・女23となったことがあったが,下高屋・末江の児童を古川小学校に移し,同19年蔵持に分教場を設立し,本校は上高屋の児童のみが通学。同22年東犀川【ひがしさいがわ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439454
最終更新日:2009-03-01




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