ケータイ辞書JLogosロゴ 苅田町(近代)


福岡県>苅田町

 大正13年〜現在の京都郡の自治体名。村制時の10大字を継承。昭和30年小波瀬村・白川村を合併し,合併各村の14大字を加え,24大字となる。大正末期頃馬場の石灰石採取権をめぐる紛争が起こった。同じ頃国道に定期バスが運行開始,石灰石およびセメント積出しのための築港が重要課題となった。昭和8年旧村と新開地区との間に新国道開通。同14年内務省直轄工事として築港工事着手。役場は提字栗原に移転。同16年政府の要請に基づき町内の区画整理・道路整備に着手,駅前通りは直線で国道と結ばれた。同19年苅田港への引込線および石炭積出し設備が完成。昭和22年頃から工業都市化が始まった。同25年頃国道10号の4車線化が終了。同26年苅田港は重要港湾の指定を受け,石炭の積出しを再開。町内の塩田はこの頃まで存続し,最後の塩田は近衛川下流右岸にあった。昭和30年の戸数4,179,人口2万687,地積は田1,117町余・畑194町余・宅地137町余・山林564町余・原野578町余など計2,800町余(苅田町誌)。同31年臨海工業造成地に九州電力苅田火力発電所が操業開始。同38年集の山麓の旧小畑学園校地に県立苅田工業高校を開設。同39年臨海工業造成地に麻生・宇部セメント会社苅田工場が操業開始。同41年馬場の山間に殿川ダムが完成。同年公害対策審議会が発足し,同48年公害防止協定成立,以後電気集塵装置により石灰降塵が改善された。昭和42年新津に西日本工業大学が開校。同43年苅田港は国際貿易港に指定された。同46年富久町1丁目に三原文化会館・町役場が落成。翌47年小波瀬臨海工業造成地および松山地先造成地完成。同50年新浜町に日産自動車九州工場が操業開始。苅田中学校は提の新校舎に移転。同52年松山東方4kmの海面に苅田沖土砂処分場の埋立てが始まり,北九州空港の建設が計画されている。同55年新津に今古賀住宅団地,松原に松原団地が完成。昭和34〜35年にかけて,苅田港に隣接する埋立地および日豊本線・国道10号沿線の市街地に新町が起立し,昭和34年港町・長浜町,同35年富久町1〜2丁目・殿川町・磯浜町1〜2丁目・幸町・京町1〜2丁目・神田町1〜3丁目・若久町1〜3丁目・松原町が成立,また同47年苅田港の北に鳥越町,同48年南に新浜町が起立。工業都市として発展を続ける一方で,農業地域として残る西部の白川地区(旧白川村域)は,昭和31年まで中学校も行橋市に依存するなど行橋市の影響を受け,苅田町の中心部との交通機関に恵まれず,苅田駅と白川地区を結ぶ京都峠の修築が待望される。鋤崎には町役場白川支所が置かれる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439630
最終更新日:2009-03-01




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