ケータイ辞書JLogosロゴ 京隈村(近世)


福岡県>久留米市

江戸期〜明治9年の村名筑後国三潴【みずま】郡のうち経隈村名とも書いた筑後川左岸,久留米段丘の北西端に位置する南東部を池町川が流れる地名は,昔ある僧侶が経66部をこの地に埋めた故事に由来するという(筑後地鑑)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領津福組に属す村高は,「元禄国絵図」342石余,「在方諸覚書」では古高320石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに348石余元和7〜8年有馬氏が侍屋敷建設のため村民を他に移住させ(石原家記),村域は縮小した同9年京隈小路,延宝5年には小松原小路ができた河岸にある有馬家菩提寺の梅林寺の地はもと山王山と称され,京隈村鎮守山王宮の旧鎮座地であった(筑後志)文化4年には,田10町8反余・畑1町余・畑7町3反余・居屋敷3反余(農政農民史料集)鎮守は京隈山王宮で,神宮寺として真言宗の法恩寺があったが,明治2年廃された延宝絵図には観音山があり,現在日輪寺境内の観音堂となっているが,この堂はもと城内二の丸にあり,久留米地方で余生を送ったと伝える安徳天皇の護持仏を本尊とし,城郭修築のとき当村に移されたものと伝える(筑後志)明治6年京隈小路が京町の一部,残りは同9年白山村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439763
最終更新日:2009-03-01




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