ケータイ辞書JLogosロゴ 草野村(中世)


福岡県>久留米市

 南北朝期〜戦国期に見える村名。筑後国山本郡のうち。南北朝期の年不詳5月8日付管領細川頼之宛の今川了俊挙状(入江文書/大友史料8)に「竹野庄内草野村」と見える。同文書によると,草野村の草野長門入道跡小地頭職を草野駿河入道が「名字地」と号して賜ったが,同地の惣地頭は田原氏能であるとする。草野氏が名字の地と主張したとおり,草野の地は文治2年筑後国在国司職を与えられた草野永平の本拠地であった。応永3年4月の竹野西郷内枝松名坪付(後藤文書/早稲田大学所蔵文書)に「草野畠弐町」とある。文亀2年3月および永正5年11月,筑後守護大友義長が草野興秀に与えた所領中に「草野本名内枝光六町」があった(草野文書/大日料9‐1)。天正3年10月5日付の草野居屋敷八十町之内村付之事と題する文書(同前/県史資料4)に大城・飯田・持田島・□生・千代島・筒郷・木塚・露・中河原・清野・石浦・□持などの地名が見える。同12年8月28日戸次道雪・高橋紹運らは攻囲中の上妻郡黒木の猫尾城より転じて竜造寺政家方の縮・坂東寺・西牟田・折地・小島・水田・柳川らを侵したが高良山座主良寛はこれに応じて草野などで戦った(薦野家譜/大日料11‐8)。同13年閏8月5日「草野千光寺柳坂表発心之岳之悪党」らが蜂起したのに対し高良山大弐らが防戦したことに対し大友義統が賞している(高良山厨氏文書/大友史料27)。天正年間のものと推定される7月5日の大友宗麟書状によると草野鑑員・鎮永の間に草野村で「不慮之喧嘩」があったが両人の分別で落着している(草野文書/県史資料4)。なお,草野氏は豊臣秀吉の九州仕置で天正16年に滅亡している。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439790
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ