ケータイ辞書JLogosロゴ 櫛原村(近世)


福岡県>久留米市

 江戸期〜明治22年の村名。筑後国御井郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。五郎丸組に属す。地内にできた久留米城下侍屋敷の櫛原小路に対し在櫛原とも称された。村高は,「元禄国絵図」1,314石余,「在方諸覚書」の古高2,253石余,「天保郷帳」1,343石余,「旧高旧領」2,283石余。文化4年には田66町余・畑田13町余・畑64町5反余・居屋敷2町余(農政農民史料集)。用水は筒川によった。享保11年東端に藩の火薬庫を設置。久留米城下に接し,扶持人の居住もみられた。鎮守社の天満宮は文化5年にこの地の土豪櫛原氏が大宰府天満宮を勧請したといわれ(久留米藩旧家由緒書),享保年間に郡中4社の1つに列し,30俵の藩寄進米をうけた。当村居住の郷士森嘉膳の家で尊王家高山彦九郎が自刃。明治6年南西部の櫛原侍小路が櫛原町として独立。同9年字淵ノ上・掛目が合川村へ編入。同11年の戸数341・人口1,594。古屋文作の私塾文昌学校があり,明治5年原徳小学と改め,同10年村立の東櫛原小学校,同19年簡易科小学となる。明治17年には熊本〜福岡間の国道が中央を南北に縦断。同22年村内のうち国道筋の一部と字南薫が久留米市の一部となり,残余は節原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439826
最終更新日:2009-03-01




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