ケータイ辞書JLogosロゴ 口原村(中世)


福岡県>頴田町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。筑前国鞍手郡粥田荘のうち。口原郷とも見える。永仁元年11月日,粥田荘惣政所が同年の預所用米目録を注進したなかに「口原」が見え,1町8反余で13石2升余と記されている(高野山文書/嘉穂地方史古代中世編)。粥田荘は高野山内金剛三昧院を領家としており,当村も同院の支配下にあった。下って戦国期,文明15年2月14日の金剛三昧院納所幸家算用状によれば,粥田荘から金剛三昧院へ進上する公事銭6貫885文のうち,口原郷の反銭1貫文は前年の秋地下が失ったとある(同前)。一方,戦国期と思われる年月日未詳の宇佐宮領不知行地給主注文案に「口原 吉賀江左馬允」と見え,当村に宇佐宮領の不知行地のあったことが知られるが(到津文書/嘉穂地方史古代中世編),当村における宇佐宮領と金剛三昧院領の関係は不明。また,応永19年6月15日に天照宮神主長屋平太夫が記した記録によれば,当村には狩子大明神があり,祭神は彦火々出見命で鎮座したのは寛喜元年であった(彦穂神社所蔵文書/同前)。天正15年豊臣秀吉の九州平定後は小早川隆景領となり,文禄4年12月1日秀吉が隆景に与えた知行方目録には「くちのはら村」267石3斗と見えている(小早川家文書1/大日古)。なお,天正年間の「指出前之帳」には「口野原村」と見え,田16町余・分米213石余,畠12町余・分大豆49石余であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439846
最終更新日:2009-03-01




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