ケータイ辞書JLogosロゴ 久保荘(中世)


福岡県>勝山町

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。豊前国京都【みやこ】郡のうち。窪荘とも書く。田川郡から豊前国府に通じる豊前道の沿道にある。鎌倉期に見える久保種家(黒水文書/県史資料10)はこの地の在地領主とみられ,種の通字が大蔵一族のものとすれば,久保荘開発に平安期の大宰府の官人大蔵氏の力を想定してもよいかもしれない。荘園領主は不明だが,観応3年2月の太宰府天満宮の安楽寺所領注文(西高辻文書/大日料6‐17)には久保荘地頭職が含まれ,本主が押領していることになっている。室町期豊前守護となった大内義弘は,久保荘内の田地をその菩提寺興隆寺の二月会舞童料として寄進した(興隆寺文書/荘園志料下)。大内盛見が幕府より追討をうけている応永9年には,久保荘政所職を大友親著が宇佐郡の国人佐田氏に安堵したこともある(宇都宮文書/大日料7-5)が,応永13年には大内氏の家臣小野資宣に荘内の20石の下地が預けられた(萩藩閥閲録71)。豊前守護に返り咲いた盛見が当地方を制圧したことによろう。天文12年にも大内氏家臣恵良盛綱が子の信勝に荘内の稗田8町7反余を譲っており(恵良文書/大分県史料8),この間,久保荘は大内氏による家臣への給地宛行につかわれていたものと思われる。弘治4年右田隆俊は,内藤隆春の押領地として久保荘の地を毛利氏に届け出た(周防国分寺文書)。陶晴賢の専制下に内藤興盛に与えられ,そのまま隆春に引きつがれていたのであろう(内藤小源太文書/萩藩閥閲録99-1)。永禄年間,豊前北部に手をのばした大友氏のもとでは,久保荘は荒木氏(宇佐郡衆か)に与えられている(片山文書/大分県史料10)。さらに,この時期吉国村のうち鍛冶屋名4町2反40代が久保荘内として荒木氏に与えられており,これは長峡【ながお】川の河川流通の関係からであろう(同前)。永禄4年大友義鎮は久保荘を安東興俊に預け置いた。安東氏は鎌倉末期,北条氏被官として京都郡に進出し,水運を媒介に財力を蓄えたとされている。その後,戦国末期にいたるまで安東氏の本領として伝えられている(本間文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439874
最終更新日:2009-03-01




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