ケータイ辞書JLogosロゴ 久留米市(近代)


福岡県>久留米市

 明治22年〜現在の自治体名。久留米城下29か町と東久留米・西久留米・白山・櫛原の4か村の各一部が合併して成立。旧町名を継承した29町のほか旧村域の大字なしの地域からなる。明治22年10月大字なし地域の一部は小頭町に編入し,残部からは通東町・縄手町・南薫町・南薫西町が起立され33町を編成。御井・御原・山本の3郡役場を市庁とした。当時の戸数4,262・人口2万4,750。明治24年の戸数4,406・人口2万5,157(男1万2,518・女1万2,639),厩4,寺院32,学校7,船119(徴発物件一覧表)。大正6年鳥飼村,同12年節原村,同13年国分町,昭和18年御井町,同26年山川村・合川村・上津荒木【こうだらき】村・高良内村,同33年山本村・宮ノ陣村,同35年草野町,同42年筑邦町・善導寺町を合併,この間区域変更・町名変更・新町起立などが行われる。また,同48年にも区域変更・町名変更が行われ,同年城南町・中央町・六ツ門町が起立。その後,同57年青峰1〜3丁目,同60年長門石1〜5丁目が起立し,同62年現在91か町を数える。世帯数・人口は昭和42年4万9,726・人口18万9,288,同57年6万7,887・人口21万7,317。市制施行時は久留米絣・縞を主要産物としたが,明治末期に籃胎漆器製造が始まった。大正10年には新興の日本足袋・つちや足袋両会社の生産が急増し,大正末期から両社はゴム工業へ転換,昭和6年ブリヂストンタイヤも創立された。交通面では明治23年博多〜久留米間に九州鉄道(のちの国鉄鹿児島本線)が開通。同38年筑後軌道の市内線完成,大正初期に電化された。同13年には九州鉄道(現西鉄)急行電車の福岡〜久留米間開通,昭和10年国鉄久大線の敷設をみた。明治30年隣接する国分村に歩兵48連隊と第24旅団司令部が設置され,同40年には第18師団が移駐し,久留米の軍都化が進んだ。昭和3年の九州医学専門学校の開設も市発展の要因となった。現在は小学校27・中学校12・高校8・高専1・短大1・大学2を数える。昭和20年の戦災で旧市街部の大半が焼失,罹災戸数は4,500。復興事業中の同28年未曽有の筑後川大洪水があり,流失・破壊家屋3,109を出すが,その後の復興は順調に進んだ。同31年にはブリヂストンタイヤの創業者石橋正二郎により,石橋文化センターが寄贈されるなど立地上の優位性を活かした産業・交通・文化の発展は,筑後広域圏の母都市としての存在を高めている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439951
最終更新日:2009-03-01




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