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黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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黒崎村(近世) 江戸末期~明治9年の村名閉伊【へい】郡のうち北緯40°線上の日本の最東端,東は太平洋に臨んで位置する海岸線は140mの絶壁がそそり立ち,集落は海岸段丘面上に分布している地名の由来は,海につき出た陸地を意味するサキにちなむと思われる盛岡藩領野田通に属す「仮名付帳」では普代村の枝村として見えるが,「旧高旧領」では分村独立して見える村高は,「旧高旧領」79石余家数は,「邦内郷村志」22,「本枝村付並位付」23普代へ移転した妙相寺跡は「まじない場」と呼ばれ,西国巡礼塔(享和3年)・金毘羅大権現供養塔(安政7年)や地蔵の石仏があるまた,下村に宇賀神社,上村に八坂神社がある生業は半農半漁であり,農業はしばしば凶作に悩まされ,宝暦5年・天明3年・天保7年は大飢饉であった悪政・重税に反対する百姓一揆は弘化4年・嘉永6年に起こり,三閉伊一揆には当村から仙台藩に行った者が59名いる(九戸地方史)海岸防御の備えをなすべしとの詔勅を受けた藩主南部利剛は,元治元年領内の東海岸を巡視し,地内にも砲台2基を築かせた(南部史要)明治2年宮古湾海戦で敗れた旧幕府軍の戦艦高尾が羅賀の海辺に乗り上げ,普代村の山中に脱走兵が潜伏したまもなく95人が野田代官所に降伏し,江戸送りとなった明治元年松代藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属同6年黒崎郵便取扱所開設同8年民家を借用して黒崎小学校開設同9年普代村に合併現在普代村の行政区名に黒崎が見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
黒崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」