ケータイ辞書JLogosロゴ 上八村(中世)


福岡県>玄海町

 平安末期〜戦国期に見える村名。筑前国宗像郡のうち。承安5年4月2日の筑前国上八村住人津守三子解に「上八村住人故工武元妻津守氏三子」「上八村内与坪内弐段字井手副薗早田陸拾歩・同畠地一所」がみられる。同解によれば,津守氏三子が甥宗三郎大宮司近弘に押領されていた上八村の田畠の領掌を宗像社に願い出たもので,その結果,大宮司宗形氏は外題を与え,田畠の領掌を安堵している(宗像神社文書/平遺3680)。鎌倉期に入って,文永3年12月6日の自犬王丸田地相伝状には「上八村両室自犬王丸四段内,付尻小縄手下二廿町小卅歩許,於同上之峰杉内小卅歩許候」と見えている(同前/鎌遺9606)。また,乾元2年6月,宗像社領田代并立用以下目録に「上八村」が見える(応永社家文書総目録/宗像郡誌中巻)。南北朝期に入って,建武元年3月20日の雑訴決断所牒には,「当国上八村・村山田・光岡・内浦・山田村等者,織幡・許斐・孔大寺権現長日御供已下御敷地等,重色無双之地」とし,去年9月17日の綸旨に任せ,「全所務可専神用」とある(宗像神社文書/南北朝遺18)。次に,応安神事次第の4月1日の「湊木皮社事」には,「敷物ハ上八村郷役」とあり,永享9年3月7日の追記部分にも「上八村郷」が見える(神道大系神社編宗像)。戦国期に入って,天文20年11月23日の,温科慰重給田畠屋敷坪付等注進状からは,当郷内に温科慰重の所領3反小があったことがわかる(竹井文書/県史資料5)。また,永禄4年6月1日,宗像氏貞が宗像神社の「諸社之御祭礼立用米」に寄進した100町の中に,「上八村郷参町」がある(宗像神社文書/宗像郡誌中巻)。さらに,天正6年6月1日の第一宮御宝殿御棟上之事置札の「御領中人夫之事」では,「上八村郷」とあって,田野郷・池田郷とともに一手に編成されている(神道大系神社編宗像)。なお,天正年間の「指出前之帳」によれば,当村の地積・分米は枝村の鐘崎を含めて,田は28町余・472石余,畠は31町余・147石余,合計59町余・622石余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440092
最終更新日:2009-03-01




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