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細工町(近世~近代)


江戸期~昭和48年の町名江戸期は久留米城下の1町城の南方に位置し,東は米屋町,西は今町に続き,北に呉服町通り,南に池町川がある町名の由来は,細工をする町人が古く...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7440316]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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細工町(近世~近代)

江戸期~昭和40年の町名江戸期は広島城下白神組に属す広島城の南,元安川東岸白神通(大手筋)の西に並行する竪町で,北は猿楽町,南は元安橋東詰町名の由来は「知新集」によれば,小細工職人が多数居住していたことによるという毛利氏時代城内の毛利元康邸前から当町に通ずる道があって元康通りと称され,元安橋は古くは元康橋と書いたという元和5年の城下絵図では町間数1町4間寛永2年の家数改では猿楽町と合わせ本家87・借屋182「知新集」では石橋1・町門1,町間数2町余,家数58・竈数58(本竈21・借竈37)・人数243,うち本道医・塗師各2,指物師・筆結・柄巻師・三味線師各1など元安川土手には広島城南西隅の櫓下から細工町にかけて藩の船着場があり,材木蔵・木売所・米蔵が置かれた城下随一の薬店と評された世並屋は町年寄・唐薬種改などを勤め,米屋忠左衛門家は歴代藩の勘定所御用を勤めたまた米の仲買・質貸の長門屋権八家,金銀両替を業とし船年寄役などを勤めた長門屋与三郎家,繰綿商の伊予屋,端物商で唐物改問屋を勤めた山県屋など特権商人が住んだ地内には慶長年間の創立と伝える浄土宗西蓮寺,真宗西向寺がある(知新集)明治4年郵便役所が塩屋町に設立されたが,のち元安橋東詰に移転同8年広島郵便局と改称,同12年には郵便貯金の取扱いも始めた(新修広島市史)同11年広島区,同22年広島市の町名となる明治15年横町・広瀬村の各一部を編入同16年の広島諸商仕入買物案内記には5階建ての料亭五階楼など旅館料理商3,汽船問屋・製本所・薬種商・洋酒・煙草などの商店12が載り,本通り西端を占めるこの界隈のにぎわいが窺える昭和20年8月6日広島に投下された原爆は当町19番地島病院上空約600mで炸裂その瞬間5,000万℃に及ぶ高温を発し,巨大な火球となって町を焦し,爆心地から2,700m余りの円内では一切のものをほとんど焼きつくす未曽有の大惨事となった大正6年の戸数74・人口321,昭和26年の世帯数73・人口314同40年大手町1~5丁目となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~昭和37年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた甲府城の北,外郭内に位置する東西通りで,東は元城屋町に接し,西は東西通りの広小路と南北通りの畳町・竪町が交差する四つ角となる1~2丁目からなり,町の中央部で南北通りの大工町・元連雀町が交差する町名の由来は,細工職人の居住地であることによる役引7町の1つで,伝馬役・町人足役は免除された戸口は,寛文2年48戸,うち金具師11・鞘師13・研師23・紺屋1(甲州古府中町数家数間数改帳/甲州文庫史料2),寛文10年186人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年50戸,うち1丁目24・2丁目26(上下府中間別/同前),享保5年166人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年160人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年48戸・126人,うち男61・女65(国志),天保7年48戸・105人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)江戸後期には金具師・鞘師などの役の勤め方はなくなり,明屋敷が増加していた寺院は,日蓮宗池上本門寺の末寺藤光山法華寺があり,寺領18石7斗余明治初年には細工職は皆無で,近村に出作する農民と小商売・日雇・その他の職人がいた明治3年の戸数35,うち家持30・借家5(甲府町方家数人数取調書)同17年上府中組戸長役場の管轄区に入る同22年甲府市に所属同年から同36年まで上府中を冠称町の立地条件から商工業の発展に取り残され,同年の戸数20・人口104と激減したその後,大正9年は世帯数52・人口270,昭和期に入ると住宅街となって急増し,昭和26年には世帯数187・人口761となる同37年武田1~4丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は高知城下下町の1町で,明治初年北街,同22年からは高知市の町名となる下町と郭中を分ける外堀沿い南北の横町筋と,東西の縦町筋からなる町人町北は蓮池町,南は種崎町(北種崎町),東は新市町城下町建設当初,諸職人が多く居住したことに町名は由来するという「高知風土記」によれば,東西79間・南北83間,家数91軒,堀を隔てた西の郭中帯屋町へ橋が架かっており,その長さ9間1尺5寸並に2間とあるもとは橋の上にシダ類を敷いて土を盛っていたことから土橋と呼ばれ,橋名にちなんで,堀沿いの片町は土橋町と呼ばれたこの土橋町の東,下町を南北に二分する堀に架かる使者屋橋から蓮池町までのびる通りの東側に,称名寺末寺浄土宗大超寺があった同寺にちなんで,この横町は大超寺町と呼ばれたなお同寺は,元禄11年の大火罹災後,新町に創られた寺町を経て宝永4年小高坂村へ移転した「皆山集」産業編の起業によれば,文政年間には,藩の御用を勤める塗師頭岩井三平と当町の御紅屋貞四郎の両人がはじめて水銀を採取したというまた幕末の志士豊永伊佐馬は当町の出身明治3年土橋町に国券製造所設置(高知沿革略志)同13年黒住教高知中教会建設昭和11年一部が播磨屋町となる世帯数・人口は,昭和6年97・455,同45年56・160(男62・女98)同47年追手筋1丁目・帯屋町1丁目・はりまや町2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は柳川城下の1町東は沖端川から取り入れた二ツ川に沿う椿原【つばはら】町・新町に,西は東魚屋町・南長柄小路・北長柄小路に,南は出来町に,北は旭町・瀬高町に囲まれ,旧瀬高水門より引き入れた堀割を越える南北に細長い町元和6年再入部した立花宗茂は藤吉村の一部をさいて新町をつくり,大曲・新町を経て市街に入るように改め,瀬高門をここに移したこの時期瀬高町3丁目と新町との間には銀細工屋や鼈甲細工屋などが点々とあり,箔屋町・白金町・笄町の3町をなしていたのを細工町と改称した(県史3‐中)「柳河明証図会」には「諸職人町々小路に入交りて住居せしを町別当松田縫殿といふもの此所に集めしよりの名といふ」とあり,また真宗の長栄寺・光照寺・常光寺を記している「柳河年表」には寛延元・享和元・嘉永5年の火災を記している(県史資料5)明治6年3か寺の裏の寺浦を椿原【つばはら】町に編入同11年の耕宅地3町,戸数146・人口625(県史資料2)同22年柳河町,昭和26年柳川町,同27年からは柳川市に所属同55年の世帯数132・人口484...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の西に位置する東は下紺屋町,西と北は田町,南は上紺屋町に接する東西に長く道路の片側のみで家は北に面する町名の由来は,木工芸(木匠)の職人町として成立したことによるという(津山誌)元禄10年の城下町図によれば,家数24うち持家21・借家3,人数295(男156・女139)津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によれば,大工職が8軒あり,ほかに作事家(作人)が4軒ある安政3年の津山藩士分限帳によると,「四十五俵作事家業瀬島杢平」の名がある同じ作事家業に西村・小倉・水島など4人の名が見えるが,瀬島は寛政年間以後は世襲になって田町にいた当町にはこれらの棟梁の下で大工仕事をする職人が多く,のちには町内に有力な棟梁が住んだはじめ城の作事に関係し,田町との関係で士邸御用も多かったという明治初期の戸数29・人口108(同前)明治期以後大工関係は減少,宝来家など古い家屋の形を残しているものがある世帯数・人口は,昭和45年32・106,同55年34・77...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は萩城下28町の1つ東は塩屋町,西は春若町,南は恵美須町と油屋町,北は樽屋町に接する当町内には鍛冶屋町筋・細工町筋の東西に走る2本の道筋がある東側の塩屋町とは端坊筋・友貞横町,西側の春若町とは油屋町筋でそれぞれ区切られている町名の由来は,当地に細工人が集住したことにちなんだものという(萩諸町之旧記草案)当町の成立の時期は明らかではないが,寛文7年に幕府巡見使が来萩した際の回答書に当町の名が見える(波多野氏記録雑要集抄)宝暦元年萩大絵図付録の記録(寛延3年改)によると,間数537間,総竈数187うち本軒55・店借129・内貸屋3,ほかに蔵6,町の規模としては28町のうち今魚店町に次いで大きい明治12年には西田町外6か町からなる萩北部南組を形成し,当町内に戸長役場が設置され,同17年には呉服町1丁目外15か町1か村からなる萩西組に属した明治16年の戸数110・人口396(県の統計百年)同22年萩町,昭和7年からは萩市に属す...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称元和4年小笠原忠政の明石築城の際に成立した町享保6年改によれば,役門20軒7歩5厘,家数77(本家36・借家41),建家表地口118間5尺,人数324,細工町筋は別名白銀町と呼んだという(金波斜陽)細工職人たちが住んだところから町名がついた(明石市史)町内には,医師として新宮正庵・谷村三録・築山玄竹・針立林次郎左衛門がいた(播州明石記録)文化8年,浜光明寺(鍛治屋町)において円光大師六百年忌の法会が開催されたとき,細工町の薬種商大和屋の主人名村愚仙が円光大師御遺跡48所口禰一行巡拝記を著している(明石名勝古事談)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日空襲により89戸を全焼(明石市史)同47年本町1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

細工町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治44年までは牛込【うしごめ】を冠称古くは豊島郡野方【のがた】領牛込村に属し,護本山天龍寺の寺地であったが,天和3年の大火に類焼して追分【おいわけ】(内藤新宿)に移転後,その跡地は御細工方同心の町屋敷とし,牛込御細工町と称す文政11年の家数169軒(町方書上)明治元年東京府に所属同5年近隣の武家地を併合同年の戸数125・人口451(府志料)同11年牛込区,昭和22年からは新宿区に所属「従前の町家にて,納戸町に連なり,概ね商工職人の家なり(中略)此辺神楽坂に遠く,邸宅の間,買物に不自由なるより,此所に市廛を開きて日用品を鬻ぐ八百屋あり,魚商あり,酒店,菓子舗あり,鶏卵あり,牛鳥肉生蕎麦あり,以て納戸【なんど】町より払方【はらいかた】町に達す」(画報)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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