ケータイ辞書JLogosロゴ 堺郷(中世)


福岡県>直方市

鎌倉期〜戦国期に見える郷名筑前国鞍手郡のうち永仁元年11月日の筑前粥田荘預所用米目録案の中に堺郷があり,108石5斗7升とあるように,高野山金剛三昧院領粥田荘内に含まれていた(金剛三昧院文書/鎌遺18416)南北朝期に入って,建武元年4月16日,彦房丸は「筑前国粥田庄堺郷鎮守祇園社大宮司職」を粥田荘惣政所から宛行われている(筑前須賀神社文書/南北朝遺30)次いで,建武4年の粥田荘麦作目録にも堺郷が見え,3斗8升8合8勺とされている(金剛三昧院文書/南北朝遺1110)さらに,貞和2年11月の粥田荘惣政所注進状にも堺郷が見えている(金剛三昧院文書/南北朝遺2272)室町期に入って,文明7年12月19日,室町幕府は大内政弘にあて,「筑前国粥田庄十三箇郷内堺郷事」に対する押領をとどめ,もとのように高野山の雑掌に渡付するよう命じている同日,室町幕府は少弐政資にも「筑前国粥田庄内十一箇郷」に対する押領をとどめ,もとのように雑掌に渡付するように命じており,粥田荘は次第に押領されていたことがわかる(金剛三昧院文書/博多史料2)ついで,文明11年正月日,粥田荘務頼順は「同(文明)十年十月ヨリ半分寺家知行無相違〈陶尾張守一筆在之〉半済分杉長菊丸知行,已前杉弾正忠知行之以例,今モ彼方拘ト云々,此内堺郷半分安富掃部助知行云々」と注進しており,粥田荘半済分が杉長菊丸知行となり,堺郷については半分が安富掃部助知行となったことがわかる(同前/大日料8‐11)戦国期に入って天文8年5月3日,大内義隆は「筑前国粥田之庄境郷,大興山永満寺双林院」の寺領9町7反について,宇佐宿禰奥村の押領をとどめ,永満寺双林院領として安堵している(双林院文書/鞍手郡誌)また,天文23年2月吉日の年紀をもつ福地神社の洪鐘銘に「日本国筑前国鞍手郡粥田庄堺郷福智権現御宝前」とある(直方市史)ところで,堺郷はまさに筑前・豊前両国の国境にあり,応永15年8月27日の沙弥某下知状に「豊前国田河郡堺郷」とあるように,郷域は両国にまたがって存在していた(金剛三昧院文書/高野山文書2)また,当地は「庄屋敷」(金剛三昧院代官駐在地)のあるところで,その境界の地としての性格から市場が存在しており,文明11年10月18日の粥田荘納所等連署算用状に「〈さかい〉市屋敷銭」「一,〈秋〉市屋敷銭 納分 一貫十六文,市分 堺郷」とある(同前)堺郷市場は,正応2年の粥田荘年貢送状に「市銭拾弐貫文」とあることからすでに鎌倉期からあったとみられる(同前)なお,天正15年2月26日,尾仲主膳兵衛尉は杉統連から,「境郷寺家分四拾町代官職」を預置かれている(山部村庄屋文書/鞍手郡誌)天正年間の小早川氏の「指出前之帳」では上境村・今村を含む下境村として1,378石余と見えるが,文禄4年12月1日の筑前鞍手宗像御牧三郡内知行方目録帳には,さかい村として1,378石6斗とある(小早川家文書1/大日古)江戸期には上境村と下境村に分かれ,現在の直方市上境・下境に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440346
最終更新日:2009-03-01




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