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- 三箇荘(中世)とは
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三箇荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名播磨国のうち三ケ・三个とも書き,山階荘ともいう弘長2年6月1日の興福寺年中行事の沙汰次第に寺領として「三ケ庄」が見える(大乗院文書/吹田市史4)当荘は興福寺領で,在地の開発豪族から院政期に藤原氏に寄進され,藤原氏はこれを氏寺の興福寺に寄進したと考えられる「興福寺三綱補任」によれば,永仁2年には興福寺の権寺主源乗が当荘を知行していたが,嘉元4年には権寺主法橋長乗,正和4年には寺主法橋玄舜の知行となっており,これ以降も当荘は興福寺の寺主・権寺主が知行している(続群4下)南北朝期には,文和4年11月4日法印公憲が「興福寺領播州山階庄〈亦号三个〉兵粮以下」の催促の停止を命じており(御挙状等執筆引付/大日料6‐20),当荘は興福寺領として推移した室町期以降も大乗院寺社雑事記に散見する「荘園志料」は揖西【いつさい】郡小犬丸・東・長尾の3か村を三箇保というとし,現在龍野市の揖西町を冠称する地域付近に比定するが,その確証は乏しい(竜野市史4)比定地未詳 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
三箇荘(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名丹後国のうち嘉元3年頃のものと推定される摂籙家渡荘目録に,法成寺領として「丹後国 三ケ庄〈被付寺家〉免田二百廿六町 年貢六丈絹二百六十疋」とあり(九条家文書),また暦応5年正月日の摂籙家渡荘目録にも,法成寺領として「丹後国 三箇庄〈前宰相頼教卿〉免田二百廿六町 年貢六丈上絹二百六十疋」とある(同前)比定地未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」