ケータイ辞書JLogosロゴ 椎田村(近世)


福岡県>椎田町

 江戸期〜明治22年の村名。築城郡のうち。小倉藩領。椎田手永に属す。村高は,「正保国絵図」840石余,「元禄国絵図」777石余,「天保郷帳」1,088石余,「旧高旧領」1,085石余。元和8年の家数78・人数200,牛19・馬16(人畜改帳)。小笠原氏時代にはいると築城郡の郡屋が置かれ,また松江・八屋とともに宿駅が設けられた。元禄7年当地を訪れた貝原益軒は当地のことを「上野新町より四里東にあり。海に近く漁魚多し」と伝えている(豊国紀行)。享保の飢饉では303人の餓死者を出した(開善寺過去帳)。享和2年頃の状況は「人家百五十軒計海辺に立つ……多くは漁者農夫にして,宿屋茶屋もあり。是も小倉の御領にて,駅の宿なり。宿の出口に細き川あり」というものであった(筑紫紀行)。寺院は西福寺がある。明治6年に椎田小学校が椎田の西福寺に開設され,翌7年湊に移転。同年椎田に椎田郵便局設置。同9年小倉警察出張所管内の築城・上毛両郡を管轄する椎田屯所が置かれた(県警察史)。同22年椎田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440453
最終更新日:2009-03-01




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