ケータイ辞書JLogosロゴ 下妻荘(中世)


福岡県>筑後市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。筑後国下妻郡のうち。太宰府天満宮安楽寺領。弘安年間と推定される国分友兼重申状案(新田神社文書/鎌遺16606)に,「筑後国下妻庄預所職」と見える。正和2年2月日安楽寺少別当信朝が所帯の屋敷名田などを注進したなかに「下妻御庄 庄司職〈得丸名〉」とある(太宰府神社文書/天満宮史料9)。貞和3年3月10日の沙弥涌念置文写(反故廼裏見来之巻十八所収/南北朝遺2314)によると,下妻荘内の河口間真田村田地4町は涌念の所領であった。観応3年2月日書写の安楽寺領注進状案には,下妻荘が征西将軍懐良親王方に押領されていることが記されている(太宰府天満宮文書/同前3340)。応永2年閏7月25日法眼信満・信雄が天満宮領筑後国不輸荘などを注進したなかに,下妻荘も見える(西高辻文書/大日料7-2)。応永19年かと推定される年未詳10月17日,菅原氏長者在宣は下妻荘を大鳥居信永に知行させている(太宰府天満宮文書/天満宮史料12)。享徳3年8月日安楽寺公文所が御祭田楽酒直を弁済すべきことを命じた荘々の中に下妻荘も含まれている(太宰府神社文書/博多史料2)。年月日未詳の御灯明方目録案文(同前3)に下妻荘は「留守大鳥居領地」とあるが,年未詳12月6日の法眼信元灯明方注文(同前4)には「小鳥居領地」とし,天満宮社前の灯明を負担する荘園であった。天満宮留守職大鳥居信渠が永禄3年8月19日に写した御祭騎馬貫首支配帳(同前5)によると,下妻荘には寅申巳亥の年に御祭騎馬貫首が割りあてられていた。天文5年と思われる8月28日,大友義鑑は五条良続に「下妻五拾五町」を与えた(五条家文書/纂集)。年月日未詳の五条氏屋敷并所領注文にも「下妻五十五町」とみえる(同前)。天正15年正月23日,肥前の竜造寺政家は「下妻庄分 七十五町」を五条鎮定に与えており(同前),同年10月13日立花統虎(宗茂)が大鳥居信寛に下妻村で49町を給している(水田天満宮文書/水田荘広川荘史料)。文禄4年の筑後国知行方目録に,「千九拾弐石弐斗五升 下つま村」と見える(立花文書/県史資料4)。また,「安楽寺草創日記」によれば,永承2年安楽寺金堂に下妻荘53町1反余が寄進され,延久4年食堂修理の荘として下妻など8荘があてられたという(太宰府神社文書/天満宮史料5)。現在の筑後市下妻・馬間田・富安にわたる一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440686
最終更新日:2009-03-01




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