ケータイ辞書JLogosロゴ 下中益村(近世)


福岡県>嘉穂町

江戸期〜明治8年頃の村名筑前国嘉麻郡のうち遠賀【おんが】川(嘉麻川)両岸の平地と,それに続く山地に立地する「続風土記拾遺」に「民居本村・久島両所に分る中益村の枝郷なりしが寛文年中別村となる故に民屋互に相交りて碁石を布たるが如し」と記されるただし,「元禄郷帳」「天保郷帳」では中益村枝郷と注記される福岡藩領村高は,「元禄国絵図」533石余,「天保郷帳」558石余,「旧高旧領」549石余若八幡宮があり,中益・下中益・大隈3か村の産土神で,南西の頓宮地を浜殿という浄土真宗明善寺は,椎木村浄円寺の末寺(続風土記付録)明治初期の中益村と合わせた戸数85・人口412(男211・女201),当村の田28町余・畑8町余・山18町余,正租は米・大豆231石余,雑税は米・大豆6石余と金71銭2厘,池1,牛28・馬3,小学校が本村にあり,生徒数は男51・女5(地理全誌)寺子屋教育を行っていた明善寺を校舎にして明治7年益富小学校が開設するが,翌年大隈町上町に移転して大隈小学校となる(嘉穂郡誌)明治8年頃,中益村に合併現在の嘉穂町中益のうちにあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440703
最終更新日:2009-03-01




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