上畑村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。筑前国遠賀【おんが】郡(寛文4年御牧【みまき】郡が改称)のうち。福岡藩領。虫生津【むしようづ】触に属す。天正年間の「指出前之帳」によれば,香月村のうちに畑村が見えている。なお,近世後期,畑村の枝村として大鋸畑村があった。村高は,「慶長国絵図」では畑村と見え214石余,「正保郷帳」も畑村と見え120石余(田105石余・畑14石余),「元禄国絵図」120石余,「天保郷帳」166石余,「旧高旧領」147石余。集落は本村・笠松・辰谷・灰谷門司口。鎮守は吉留村の八所宮。ほかに村内に荒平宮があった。灌漑用池は3か所。出土した陶器は,宗像大宮司の祭器の製作地ともいわれるが(続風土記付録),朝鮮出兵の際に連れてこられた朝鮮人陶工によって慶長初年に焼かれた上畑焼窯跡とされる(岡垣小史)。明治初期の戸数29・人数171(男84・女87),牛27・馬11,田9町余・畑4町余・大縄田畑2町余・山林288町余,特産物は生蝋,正租は米・大豆65石余,雑税は米・大豆1石余と金88銭(地理全誌)。明治22年矢矧村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440817
最終更新日:2009-03-01