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- 次郎丸名(中世)とは
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次郎丸名(中世) 鎌倉期に見える名【みよう】の名豊後国大分郡賀来【かく】荘のうち大分市西南部と思われるが未詳宝治2年7月27日の六波羅施行状に,「豊後国賀来庄地頭小次郎惟綱与左衛門尉頼妙法師〈法名妙念〉相論条々,一小野津留郷,一鬼藤名田畠事,一次郎丸名事」と見えるのが初見惟綱は治承3年はじめて領家より賀来荘下司職に補せられた佐伯三郎惟家の孫で,貞応3年地頭職補任の下文をうけ,祖父以来の下司職を安堵された一方頼妙は,養和元年大宮司となった平章妙の子で,2代目の由原宮大宮司大宮司家は賀来荘の雑掌とも,預所とも呼ばれる下級の支配権者となっている父祖以来の下司職を継承する地頭惟綱は,新補率法によって加徴・給田を請けることを強請し,預所である大宮司家と相論を起こすこの相論は次郎丸名等8項目にわたるもので,六波羅施行状には宝治2年5月16日の関東下知状に任せ沙汰を致すとあるが,関東下知状は首部が欠損し,次郎丸名の項はまったく残っていない終見史料は嘉元3年2月の由原宮年中行事次第案で,11月の北辰祭の酒肴役が次郎丸名役となっている(柞原文書/県史料9) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」