ケータイ辞書JLogosロゴ 志波村(近世)


福岡県>杷木町

 江戸期〜明治22年の村名。筑前国上座郡のうち。福岡藩領。近世後期枝村として道目木村・高山村・宮原村・志波町・瀬戸村があった。天正年間の「指出前之帳」によれば,地積・分米は,田41町余・472石余,畠24町余・143石余。村高は,「慶長国絵図」1,450石余,「正保郷帳」1,626石余(田1,200石余・畠426石余),「元禄国絵図」1,485石余,ほかに志波村枝郷道目木村141石余,「天保郷帳」1,537石余,ほかに志波村枝郷道目木村144石余,「旧高旧領」1,664石余。福岡と日田を結ぶ日田街道にあり,志波宿と唱える本宿で人馬継所があった。寛政6年の家数360・人高1,800(男990・女810),馬110・牛20(寛政郷帳)。慶長6年栗山備後が当村に配され,左右良城を築いたが,城は元和元年の一国一城令によって破却された。寛永年間,栗山大膳が久喜宮から市を移し,毎年2月27日から3日間市が立った。この市は,はじめは池田村にあって杷木の市といったことから当村に移ってからも杷木市と称した。元禄13年からは月に6度の六斎市となったが,のちに廃絶した。元禄13年生葉【いくは】郡小江村と国境争論が発生,争いの河原を等分に分けて解決した。産土神は地内宮原の宝満神社。麻氐良山に式内社の麻氐良布神社がある。真言宗広大山普門院は聖武天皇の勅願寺で天平19年の草創と伝えられる。本堂・銅鐘および本尊の十一面観世音立像は国重文。曹洞宗竜光山円清寺は,黒田氏の家臣栗山備後利安が黒田如水の菩提を弔うために創建したもので,如水の位牌画像を安置する。寛政6年福岡藩主黒田斉隆が田畑7反余を寄付。浄土真宗足立山光宗寺は,慶長17年寺号・木仏を許された。なお,筑後川を越えて当村の畑3町7反余・野地2町8反余があった(続風土記付録・続風土記拾遺)。明治6年字笹尾に第9大区調所設置。明治初期の小名数18,戸数485・人数2,412(男1,270・女1,142),馬103・牛6,人力車2・荷車3,田73町余・畠70町余・大縄田畠5町余・山林88町余,物産は粟・川魚・生蝋・蜂蜜・紙・煙草,正税は米・大豆859石余,雑税は米・大豆25石余と金32円余(地理全誌)。同7年志波小学校,同9年同校分校が設立される。同年の生徒数は,志波小学校108(男85・女23),同分校27(男24・女3)。同14年原鶴温泉が発見されたが,同22年の大洪水で荒廃し,温泉としての発展は大正期以降に持ち越された。明治15年福岡区裁判所志波出張所設置。同22年市制町村制施行による志波村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440875
最終更新日:2009-03-01




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