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- 新大工町(近世~近代)とは
「新大工町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 新大工町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の町名江戸期は福岡城下の1町城下の西外郭に立てられた町博多湾に注ぐ菰川河口右岸に位置する寛永15年藩主忠之の命により大工に宅地を与えて町を立て...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7440895]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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新大工町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は和歌山城下新町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の北東部,元和5年徳川氏入国以後開かれた町人地新町の東縁部に位置する北は新八百屋丁,南は木挽丁東は畑屋敷円福院西ノ丁・岡円福院西ノ丁・岡林泉寺丁,西は新中通6丁目と地尻を接する町名は,内大工町(のち3か町に分離)に対し,新町の大工集住町であったことによる内大工町は御軍役大工として家持本役大工36人・半役大工49人が集住させられたが,城下の拡大とともに大工人数が増し,新大工町・広瀬・湊・北新町・板屋町の各組に分かれて居住することになり,新大工町は内大工町の半役7人が分かれて成立したと伝える(旧県誌)当町には大工運上銀が課せられたため,新町としての新町年貢は納入するが,町入用は間打による惣代給のみ負担した(神保家文書)明治8年新工小学が開校同校は同15年菁莪小学,同17年新北小学,同20年新北尋常小学校,昭和16年新北国民学校と改称,同21年大新国民学校と合併し同22年大新小学校となった昭和20年7月の空襲では全域を焼失したが,第2次大戦後,商業地として復興した明治6年には戸数29,男55・女63大正2年30戸・181人 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」