ケータイ辞書JLogosロゴ 鈴隈(中世)


福岡県>吉富町

 室町期に見える地名。豊前国上毛郡のうち。応永32年7月少弐満貞と菊池兼朝が連合して大内氏に対し兵を挙げた。これに対し豊前国守護大内盛見は九州に出兵,「到津家譜」応永32年9月2日条(大友史料10)には「豊後,筑前所々ニ逆徒等蜂起ニヨッテ,御屋形(大内盛見)大先上毛郡鈴隈ニ御下着」と見える。同日,宇佐大宮司公兼は鈴隈に神馬1疋を寄進して参向し,「九州静謐之時」には宇佐宮への参宮を請うている。この時大内盛見は鈴隈寺に入ったと思われる。鈴隈寺は山号を金華山といい天平年間に行基開山と伝える。なお応永30年12月15日の宇佐宮寺御造営并神事法会再興日記目録(到津文書/大分県史料30)によれば鈴隈より神馬を宇佐宮に進めている。大内盛見は翌年の応永33年1月28日に宇佐宮に入り安門坊を宿坊としているので,その頃も鈴隈に陣を構えたことになる。応仁の乱で西軍の大内政弘が京都にいるすきに,少弐氏は東軍に応じて筑前の回復をはかり,文明元年からは大友親繁も加わって筑前・豊前を中心に戦が続いた。この戦いは文明10年少弐政資の敗北で終わったが,文明10年10月9日(正任記/大日料8‐10)には「両国御祝言」のため鈴隈寺弾正少弼武治の使,波多野出雲蔵人が参上したことが見える。これ以後,博多は大内氏によって支配されることとなる。鈴隈寺は寺田をもち,天文24年2月19日の坪付注文(緒方文書/大友史料20)によれば有久名の鈴隈寺領田地3反について反銭80文・定米4斗5升・天料反別40文,また畠地は地子を夏秋に1斗4升6合それぞれ納めていた。天正6年大友義統が6万の兵を率いて日向の土持親成を破った時,麦生鑑光への書状(大友家文書録/大友史料24)に「聊不可有油断之趣,鈴隈寺江申含候」と見え,鈴隈寺の僧が義統の使僧として随伴していたことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7440984
最終更新日:2009-03-01




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