ケータイ辞書JLogosロゴ 千手(中世)


福岡県>嘉穂町

 南北朝期から見える地名。筑前国嘉麻郡のうち。正平9年10月,南朝方である筑後の人木屋行実や草野永幸らが千手において北朝方と戦い勝利したことが,同年11月の両名の軍忠状より知られる(木屋文書・歴朝要紀/嘉穂地方史古代中世編)。同文書によれば,当地には千手城があったが,これは当地の在地勢力と思われる千手氏の城であったろう。千手氏は南北朝初期から南朝方として活躍しており,千手城は南朝方の有力拠点であったと思われるが,北朝方に陥れられて一色範光がたてこもっていたのを,南朝方が奪い返したのである。室町期にはいると,当地は少弐氏の知行地となっていたようであるが(志布志・都城野辺文書/同前),反乱を起こした赤松満祐の追討に失敗した少弐教頼は,幕府の命を受けた大内氏らに攻撃をうける立場となり,千手城においても攻防戦が行われ,嘉吉2年3月11日幕府は同城における平賀頼宗の協力を賞している(平賀文書/同前)。下って戦国期,秋月文種が毛利氏に通じて大友氏に叛したため,大友氏側の豊前佐田氏や豊後萩原氏は弘治2年6月8日千手・馬見において秋月軍と戦っている(佐田文書・萩原充氏文書/同前)。その後永禄11年11月19日,大友宗麟は豊後国玖珠郡の諸士に対し千手要害以下のことを報じている(大友家文書録/同前)。なお,天正年間の「指出前之帳」には「千手村」と見え,田132町余・分米1,432石余,畠34町余・分大豆270石余であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7441051
最終更新日:2009-03-01




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