ケータイ辞書JLogosロゴ 鷹尾村(近世)


福岡県>大和町

 江戸期〜明治22年の村名。山門郡のうち。柳川藩領。垂見組に属す。村高は,「元禄国絵図」2,717石余(泰仙寺村分を除く),「天保郷帳」4,917石余(泰仙寺村・皿垣・作出・南野の分を含む),「旧高旧領」1,332石余(上記の分を除く)。明治5年の反別は81町8反余(郡郷/立花家文書)。庄屋は天正12年鷹尾城主の一族田尻但馬守次男平川与三右衛門に始まり,太郎左衛門―七郎左衛門―新三郎(正保年間の人)―伊右衛門―伊右衛門―三郎兵衛(貞享年間の人)―忠兵衛―忠兵衛―新治―元助(寛政年間の人)と代々平川氏の世襲であった(若菜籠)。慶長6年9月田中吉政は家臣宮川才兵衛を鷹尾城城番(禄6,000石)としたが,元和の一国一城令で廃城。寛永15年矢部川の改修によって鷹尾〜中島間を西に迂廻していた川は南北に直線化し,鷹尾村と泰仙寺村が川を挟んで対岸に分離し,泰仙寺村を分村した(八歳神社記録/楢尾家文書)。旧河道(鷹尾・島堀切)は自然干拓地となり,右岸の鷹尾側に来迎寺開が拓かれた。小名として来迎寺開・中新開・諸左衛門開などの干拓地名が残る。正保2年の柳河藩領地図には有明海の矢部川河口(中島・塩塚・沖端川の3分流)遠浅に鷹尾のうち,長洲・大洲・荒洲・高洲・強盗州がある。鷹尾神社は有明海に神御瀬・琴の羽瀬・薬師羽瀬・宮の羽瀬・神楽羽瀬などの羽瀬(定置網漁)の漁業権を持っていた。文化9年10月15日伊能忠敬が当村を測量(測量日記)。当村を流れる矢部川には荷積み下ろしの河口港があり,また藩内4つの渡しの1つ鷹尾渡しがあって安政年間には渡船賃を取っていた(県史資料10)。造船・粘土瓦焼き・白灰焼きが盛んだった。真宗光明山因福寺,元禄元年僧活山中興の浄土真宗東光寺千鳥堂がある。明治9年島堀切村を合併。同11年の面積106町余,戸数247・人口1,211。同13年鷹ノ尾の沖羽瀬の漁業税は1等(年税4円),潟羽瀬は8等(同20銭)である(県史資料別輯)。同年の鷹ノ尾・泰仙寺津渡の渡銭は1人が3厘,牛馬1頭6厘,人力車1両5厘,荷車1両8厘であった(県統計概表)。同15年4月中島小学鷹ノ尾分校が設立,同22年廃校。同年鷹ノ尾村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7441235
最終更新日:2009-03-01




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