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- 立山村(近世)とは
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![]() | 立山村(近世) 江戸期~明治9年の村名玉名郡のうち菊池川下流,同川に支流木葉川が合流する地点の南方に位置する熊本藩領村高は,「寛永郷帳」64石余,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」93石余,「旧高旧領」574石余天正検地の写と考えられる慶長9年9月付の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,田20町余,屋敷20筆・8反余,分米64石余,居屋敷18宝暦14年の地引合見図帳(同前)では,高29石余「肥後国誌」では小田手永に属し,高860石余,「里俗大倉村ト云」とあり,小村に亀頭迫が見え,高瀬川筋の船渡場の渡守は高瀬町で勤めると記される大倉(大蔵)村と当村は隣接する村で,行政的に統合されて扱われ,はじめ大蔵村,のち立山村と称したと考えられる寛政10年の小田手永略手鑑(多田隈文書)では,高544石余,家数38軒浜村の浄土真宗西派光善寺は寛永10年の開基で,当村から移したと伝える熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属同年大倉村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」