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「寺町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

寺町(近世~近代)


江戸期~現在の町名江戸期は久留米城下の1町城の南東方,城下の東辺に位置し,南は通町,北は櫛原村に接する元和7年~明暦3年,有馬氏により21か寺が創建または移転さ...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7441719]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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寺町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は米子城下の通称地で,明治初年に町名として起立江戸期は米子城下の北端に位置し,南は立町・岩倉町,東は灘町に隣接する慶長年間の米子城主中村伯耆守一忠の時代に城下の町づくり計画の1つとして各地にあった著名な寺が当地に集められて形成された城下北端には東から順に,曹洞宗正覚山福厳院・久坂山瑞仙寺・万寿山安国寺,日蓮宗本栄山妙善寺・普平山妙興寺・久遠山実成寺,曹洞宗寛竜山法蔵寺,浄土宗見竜山常照院心光寺,浄土真宗専念山万福寺の9か寺が並ぶこれらのうち瑞仙寺・安国寺・法蔵寺・福厳院の各寺は,元和年間米子城主加藤貞泰時代に建立されたもので,貞泰が禅宗を篤く信仰し,日下【くさか】村にあった瑞仙寺の8世陽山祖全和尚に帰依したためという瑞仙寺は米子町では総泉寺に次ぐ巨刹でもとは日下村にあり,伯耆【ほうき】国に6か寺,隠岐に13か寺の末寺を有していたといわれるが庇護者であった山名氏の退転に伴い衰退し,元和年間に米子に移転した福厳院と法蔵寺は瑞仙寺の末寺である福厳院はもと日野町にあり,米子城築城の際には廃寺となっていたが,貞享年間に再建し,延宝2年に当町に移したものである安国寺は延元年間に足利道義が全国に建立した安国寺の伯耆国のものといわれ,もとは米子町より1里半余南東の大寺村にあり,寺領3,000石,坊舎60余の大伽藍であったが,永禄年間の戦いで焼失し,その後当地に移ったものという実成寺は初め久米郡倉吉町にあったが,慶長元年米子の倉吉町に移し,のち当地に再び移したものという心光寺はもと尾高村にあった源光寺を天正年間吉川氏が湊山築城の際尾高町に移したものを,のち寺名を改めて当地に移したという万福寺ももと石見国浜田にあったものを慶長2年当地に移したという妙興寺は,永禄7年より29年間かかって当地に建立され,慶長7年に現在の寺名になったという寛永10年の寺領8石1斗8升3合(伯耆志)妙善寺は慶長元年の建立このようにして建立されたこれらの寺には,それぞれ歴史上の人物が葬られており,妙興寺には城主中村一忠の家臣で米子の町づくりに功労のあった横田内膳が葬られている彼は初め感応寺に埋葬されたが,のち中村一忠を,菩提寺である感応寺に埋葬することになったため内膳を妙興寺に改葬したというそれ以後横田内膳を大檀那とし,当時は寺領を100石余も有していたという万福寺には,元和3年から数回にわたって大谷甚吉とともに竹島に渡海した村川市兵衛が葬られている村川家は立町に,大谷家は灘町にそれぞれ住居し,竹島から持ち帰った海産物で富をなした米子の大商人同じく米子の大商人で,宝暦年間から米子の屋敷田の開発や,旗ケ崎・長砂・女夫池などの干拓を行った大寺屋(船越家)の墓も安国寺にある商人のほか幕末の文化人も数多く当町の寺院に葬られているが,その中でも米子生まれの書家で草書の大家として草聖と呼ばれた児玉玉立は,文久元年に亡くなり,瑞仙寺に葬られている御来屋村生まれであるが,大坂や長崎でオランダ医学を学び,嘉永3年米子に帰って当地で初めて種痘を施した医者松本玄泰の墓も法蔵寺にあるこの法蔵寺や実成寺は,幕末頃茶会の開催所となっていた米子は出雲の松江とともに茶道の盛んなところで,茶会がたびたび開かれたが,その開催場所として鹿島家などとともにこうした寺も利用されたという(鹿島家茶会記)幕末期にはこれらの寺は鎮撫使などの宿舎にも当てられたまた,心光寺は明治元年藩が民兵を募って英国式の教練により養成した新国隊の本拠となった明治初年の戸数10・人口46(県戸口帳)明治6年瑞仙寺と安国寺を仮校舎に当て義方小学校とし男子を通学させた女子は妙善寺に設置された知新小学校に通った同7年の両校合わせた教員数は男3・女1,生徒数は男244・女7(県史近代5)同12年両校が合併し,瑞仙寺の門前に新校舎を建て,義方小学校となり,同32年西町へ新築移転明治21年の戸数8,地方税24円余・町費13円余を納める(米子市史)同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属明治末より醤油醸造所・藍商・石屋・写真場なども増えてきた世帯数・人口は,大正12年144・556,昭和30年171・687,同40年151・535,同50年120・368

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

寺町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名明治22年頃一時期酒田を冠称江戸期は酒田湊のうちで,酒田町組の1つ明治22年酒田町,昭和8年からは酒田市の町名酒田中央部に位置する当町には5丁あり,明暦2年の酒田町絵図によれば屋敷は,一丁目8軒,二丁目13軒,三丁目10軒,四丁目7軒,五丁目4軒天和2年の町割家数人数書上帳(県史17)では,家数87軒・人数421明暦2年の酒田町絵図によれば,五丁目には牢屋が見える一丁目東南の小路をじろま小路,二丁目の小路は文政6年林昌寺が南千日堂前に移転後林昌寺小路,三丁目の小路を八百屋渡世の者が居住していたので青物小路,四丁目の小路を寺小路,または挾【はさみ】小路,五丁目の小路を南蔵院小路と各々称していたという(飽海郡誌)当町北部一帯は江戸期より砂山をなし,祖父山【じじやま】といわれ,明治初期前後から人家が建ち祖父山下とも称された鎮守として稲荷神社がある(祖父山開町百年誌)地内を2つにわけて寺小路の東側を上寺町,西側を下寺町とも称した「山形県寺院大観」「飽海郡誌」によれば次の寺がある日蓮宗妙法寺は創立応仁元年で,元禄11年当地に移る真言宗竜厳寺は文明年間の開基で酒田山法泉院とも称し,談議所ともいう真宗大谷派本慶寺は慶長年間の創立同安祥寺は建武年間開基し,慶長年間袖浦より当地に移転する浄土真宗本願寺派大信寺は越後より出羽に来たり,浄園寺(浄円寺)と称したが,元禄年間大信寺と改称曹洞宗泉流寺は長禄元年の開基で享保元年当地に移転浄土宗浄徳寺は天文11年田川郡に創立され,その後移転し,明暦2年までに現在地に位置真宗大谷派浄福寺は文明7年袖ノ浦に道場を建て,文明2年までに現在地に位置,宝暦年間本間光丘寄進の唐門があり,市文化財で現存の酒田市最古の建物泉流寺の尼公堂は,開山堂とも称し,のちの酒田三十六人衆の祖と伝えられる奥州藤原氏の遺臣36騎の主人徳尼を祀る明治3年の総家数並寺院畝数調では,家数140,修験1か寺・正覚坊明屋敷がある(酒田市立光丘図書館蔵,野附家文書)明治7~8年にかけて敬楽学舎・河雲学校・泉流学校・馨香学校などが各寺院に設置された明治11年の一覧全図では,反別2町2反余,戸数245・人口1,101明治21年明治初期の各学校が統廃合され当町に琢成学校建設昭和41年一部が中央西町・中央東町および相生町2丁目・寿町・御成町の各一部となり,残余は同42年中町1~3丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

寺町(近世~近代)
江戸期~昭和49年の町名江戸期は宇都宮城下町の1町(宇都宮市史)城下北東部,千手町の一筋北側で,奥州街道と丁字路をなす町の北側に生福寺・法華寺・妙金寺と3つの寺が並んでいたので寺町と呼ばれるようになった町内は残らず3寺の門前地である寛文・天和年間のものと思われる「下野国宇津宮城下之図」にすでに寺町の名が見られる(県史近世1付録)享保8年五十里【いかり】湖洪水により田川が氾濫し,大被害を受ける(宇都宮志料)江戸初期から地子免許元文年間町方書上帳によれば,名主理兵衛・次郎兵衛,町並みは東西長さ1町35間1尺・道幅3間1尺,町家は南側22軒・北側は門前(西角に町家1軒あり),うち本家14軒・小割家21軒,木戸2か所・番所2か所,ほかに会所坊寺院として真言宗密蔵院があり,町高は53石余(県史近世1)明和8年町方書上帳には,家数25軒,この坪数364坪余と見える(宇都宮市史)真言宗生福寺は大日如来を本尊とし,享徳元年阿闍梨秀海上人の開山宇都宮城主等綱の開基,御朱印高5石,境内1,527坪江戸の豪商菊池淡雅とその子で荒地開拓に尽くした教中の墓がある日蓮宗法華寺は永正年間の建立,日戒上人の開基大曼荼羅を本尊とし,境内1,412坪日蓮宗妙金寺は徳治2年建立大曼荼羅を本尊とし,君島備中守平綱胤の母妙金尼の開基摩訶一阿闍梨日印上人の開山,境内1,800坪近世後期に宇都宮城下町の老舗と称せられた商家のうち,呉服太物を扱う佐野屋吉田丹兵衛,古着を扱う売沢屋野沢忠助・伊勢屋新兵衛・沢屋佐七・玉屋古口長蔵・佐野屋斉藤与八・瓶子屋清兵衛・伊勢屋忠兵衛などが当町に軒を並べていた(宇都宮の歴史)寛政年間の諸職人諸商人留によれば,古着屋15軒が見え,門前町として古着屋が多かったことがわかる(宇都宮市史)また,寛政8年宇都宮宿役馬町割覚によれば,大町組に属し,馬1疋を負担する(県史近世2)明治22年宇都宮町,同29年からは宇都宮市の町名大正3~7年の第1次大戦の影響で物価が急騰し,市民の生活を脅かしたため,当市は大正8年寿町と当町に公設市場を新設して,生産者と販売者を指定し,日常生活必需品を販売した昭和20年7月の宇都宮大空襲により,町内43の全世帯180人が罹災したまた,同22年9月のカスリーン台風により田川が氾濫,町内は全戸水浸しとなった当時の世帯53・人口246昭和49年仲町・大通り1丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

寺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名古くは広瀬寺町・仏護寺町と呼んだのち平田屋川沿いに成立した東寺町に対して西寺町とも俗称江戸期は広島城下の寺屋敷地広島城の西,本川・天満川間の中州北端町の中央を雲石街道が南北に貫き,北は横川橋を渡って沼田郡楠木村,南は西引御堂町に続く横川橋は長さ36間余,欄干付で毛利氏時代の架橋毛利氏時代は武家屋敷地であったが,慶長14年福島氏は打越村小河内にあった仏護寺とその触下12寺,いわゆる仏護寺十二坊を当地に移し,防御の手薄な城郭の西北に対する備えとした(新修広島市史)当町は寛永2年の家数改の55町の内に含まれないが,のち町組のうち広瀬組に加えられた寺町では町役人は仏護寺が命じ,諸役も仏護寺へ勤めるなど,同寺院支配下にあった(旧県史)承応3年の切絵図では寺17・町家20,うち作人9,仏護寺下人・舟大工・座頭各2,豆腐屋・医者・煙草切り・馬追い・円竜寺下人各1天和3年の切絵図では寺16・町家34うち作人10・中買6・紺屋3など「知新集」によれば町間数3町59間余,家数56・竈数58(本竈25・借竈33)・人数256,うち大工4・桶屋2,取葺・木挽各1仏護寺は寺域3,250坪,末寺356か寺を安芸・備後・周防【すおう】・石見・伊予の5か国にもつ巨刹仏護寺十二坊は時代により変動があるが光福寺・円竜寺・光円寺(東林坊)・正善坊・超専寺・徳応寺(立蔵坊)・善正寺(慶蔵坊)・真行寺(東前坊)・報専坊・元成寺・正伝寺・光禅寺・蓮光寺・品窮寺の14か寺(享保九年改町組寺社本末帖/知新集)このうち正伝寺は沼田郡相田村にあり,光禅寺以下の3か寺は寺地のみ有し,郡中に所在(知新集・芸藩通志)町内には十二坊のほかに仏護寺末寺の浄専寺もある元禄14年宗門改帳への連印廃止問題から仏護寺と十二坊の間に紛議が発生,双方の対立はその後も続いた(新修広島市史)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる明治15年広瀬村の一部を編入同35年仏護寺は本願寺広島別院と改称大正6年広瀬町境に広島瓦斯電軌(現広島電鉄)の市内電車横川線が開通昭和期に入りこの電車通りの新道が完成して旧雲石街道に替わる幹線となった大正6年の戸数263・人口1,077,昭和35年の世帯数123・人口462同40年一部が広瀬北町となり,空鞘町の一部を編入同55年中区の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

寺町(近世~近代)
江戸期~昭和58年の町名江戸期は和歌山城下吹上のうちの寺町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる桑山氏・浅野氏の時期には寺院を城下北東部,東宇治の東部に集めていたが,徳川氏入国後,寛永10年の紀ノ川大洪水を機として大手本町御門付近の整備に着手,寺院を各所へ移転し,跡地を武家町(元寺町)とした新しい寺町は,城下南部,和歌道沿いの武家屋敷地(現小松原5丁目北部辺り)から東へ延びる道路(現市道砂山手平線)沿いに形成された当地に集住した寺院は,すべてが元寺町からの移転とは限らないが,新吹上武家屋敷地の開発以前における城下南縁を防備する意図をもって形成されたと思われる道路北側には,儒学者祇園南海の墓碑がたつ日蓮宗広徳山妙法寺,同宗法性山本光寺,寛永17年宇治の前島から移転の浄土宗西山派照臨山三光寺,同年岡町から移転してきた国重文絹本著色十六羅漢像,南宗画家野呂介石の墓碑(市史跡)がある同宗同派増上山仙境院護念寺,南側には,寛永年間元寺町から移転の曹洞宗蟠竜山法泉寺,元和7年の創建で広厳寺から寛政元年改号した同宗大宝山恵運寺,元和5年創建の同宗竜門山窓誉寺,寛永13年大智寺地から移転してきた本草学者小原桃洞の墓碑(県史跡)がたつ浄土宗深信山現当院大恩寺,文政12年創建で念仏修行僧徳本上人に由縁の浄土宗里宮山寿経院無量光寺が並んでいたまた東部突き当たりには,2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うために寛永9年創建された浄土宗鎮西派紀阜山大智寺があって,広大な寺地を所有していたが,明治3年橋向丁の大立寺に併合され,同寺跡地は切通しにされ吹上から広瀬への交通の便がはかられた現在北部に和歌山市水道局真砂町浄水場があることから,この切通しは水道坂と呼ばれる昭和20年7月の空襲では町域の大部分を焼失同27年大恩寺南部に市立養老院を開設,同45年市立養護老人ホーム白菊寮となり新築移転した明治6年には戸数10,男43・女1大正2年9戸・37人同58年吹上1~3・5丁目となるなお,市では「寺町通り」と道路愛称名を付し,その由来の保存につとめている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

寺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は奈良町の1町北方触口支配に属する江戸期には奈良町の南西部に位置し,東側から南側に蛇行して率川が西流していた(現在は暗渠)北は北向町,南は柳町に接し,南北に延びる街区町名の由来は,「奈良坊目拙解」によれば,隣町に6か寺,なかでも法華宗の4か寺があることから,俗に法華寺町といい,のちに略して寺町となったとも,伝香寺の外囲いが隣接していたので伝香寺町といい,これを略して寺町といったともいう「平城坊目考」は「伝香寺の境内にして慶長・元和年筒井家没落以降民家となって寺町と称するもの乎」と記す寛永8年の役家数42,元禄2年の家数42,竈数64うち大家42・借家22,享保14年の役家数42,家数46,竈数57うち大家42・借家15(奈良市史通史3)貞享4年の「奈良曝」には「町役四十弐軒」とあり,医者の道育・北村玄閑(針),とぎ屋の横屋与平次の名を載せるまた宝永年間町代高木又兵衛諸事控には米屋1軒が見える(県立図書館藤田文庫)当町は,薪能と春日若宮祭に出演する能役者や,若宮祭に参勤する大名の役人衆の宿泊所を提供する宿割町にもなっていた(奈良町雑録)率川に架かる2つの橋があり,東の小川町に通じる板橋は長さ2間1尺・幅4尺で,明暦4年小川町と当町で架け改め,南の柳町へ通じる長さ2間・幅4尺5寸の板橋は寛文7年当町が架け改めているまた北向町との境の溝川には石橋があった(大和名勝志・庁中漫録・奈良坊目拙解)漢国神社の氏子区域明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属通称町名寺町北がある大正初期に町内には大正座という劇場があった大正8年同劇場跡に公設市場が開設され,食料品および薪炭などが販売されたが,昭和7年廃止春日若宮おん祭の宵宮の日には魚屋の夜市が催され,にぎわいを見せた第2次大戦後は引揚者の住宅地となったが昭和44年廃された昭和13年の世帯数48世帯数・人口は,同45年57・227,同55年50・164...

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寺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は徳島城下に形成された寺町明治22年からは徳島市の町名となる蜂須賀家政は徳島城下町の建設に際し,寺院を勝瑞や旧地の尾張から移し,最初は寺島に集め,のち眉山山麓の当地に移転させたその移転年代は不詳勝瑞から移された寺院は,徳川家の位牌を安置する浄土宗還国寺,同宗浄智寺,真言宗持明院・源久寺・東宗院,日蓮宗本行寺・寿量寺・妙永寺・善学寺・妙典寺・本覚寺・妙長寺,浄土真宗慈船寺・円徳寺・長善寺などのほか,春日寺(廃寺),真言宗来福寺・安住寺・善福寺・願成寺・般若院,浄土真宗東光寺・元勝寺,日蓮宗敬台寺があり,寺が集中する城下町の構成のなかで寺町を配するのは戦時下における兵力の屯集に利用されるとともに,防衛上重要な機能を担うことにあったまた還国寺や持明院が蜂須賀家と特殊な関係をもち,そのほかの寺院も,藩士や城下の町人の檀那寺として,きわめて重要な役割を担っていた渭津五か寺の1つ敬台寺は,日蓮宗富士派に属し,寛文6年に初代藩主至鎮の正室敬台院(虎の方)が,公儀に請うて江戸下谷の法詔寺を移築した同寺から以西の大工町の付近を,通称で敬台寺前と呼んでいたなお寺町と大工町の接するあたりは,法華(花)寺町と呼ばれ,貞享2年の徳島市中町数並家数に,東西に長さ5町余,家数15と見える(民政資料)また眉山山麓の本行寺門前に錦竜水という水汲場がある眉山から流れ落ちる飲料水で,大正15年に徳島市の上水道が完成されるまで,水桶を積んだ車を挽く水屋が,市中を回って販売していた水で,各家庭の軒先に「水入用」の木札を出しておくと給水する仕組みになっており,市民の生活にとって重要な役割を果たした明治22年の戸数92・人口274,財政規模収入98円49銭・支出112円61銭,世帯数・人口は,昭和5年104・437,同10年103・418(自治五十年小史)同17年一部が西新町1~5丁目・西大工町1~5丁目・眉山町大滝山となる...

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寺町(近世~近代)
江戸期~昭和45年の町名江戸期は黒石城下の1町黒石陣屋の東北に位置し,南は鍛治町,西は裏町に接する明暦2年,弘前藩の分家黒石領の成立に際して作成された「明暦2年検地帳」の名請人に寺町の町人が記され,陣屋の成立当初から町立てされていたと思われる町内には寺院が多く並び,町家はその南西側に立地した享保年間頃の黒石府家之図によれば家数6文化3年の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土志)では鍛治町組に属した町内の寺院は,「享保3年寺社領分限帳」に浄土宗名越派紫雲山来迎寺,浄土真宗大谷派齢松山感随寺・浄土真宗東派浄信寺,日蓮宗法輪山妙経寺があるこのうち来迎寺は町の北側にあり,慶長3年良蓋の創立とされ,元禄9年の蓮門精舎旧詞にも見える感随寺は正保4年休古の草創といわれ,元禄14年の浄土真宗一派縁起,文化15年の奥州津軽惣法中草創寺別帳にも見える浄信寺は,「国誌」によれば感随寺の末寺で同寺の境内にあり,元禄4年玄通の草創といわれ,奥州津軽惣法中草創寺別帳にも見える妙経寺は「国誌」に天正19年弘前本行寺13世日境の開基とある明治元年,榎本武揚軍に北海道を追われた箱館府知事清水谷公考一行約130人は青森から浪岡を経て黒石に退却し,感随時に本陣を置いた明治初年~明治22年には黒石を冠称する場合もあった明治初年の「国誌」によれば,町の規模は長さ1町30間半・幅2間1尺,戸数21同17年の戸数18・人口93(鳥城志)同22年黒石町,昭和29年からは黒石市に所属明治23年の当町の規模は,東西1町40間・南北1町48間,家屋数11,寺4があった同38年鍛治町からの出火で一部を類焼戸数・人口は,明治28年15・98,大正元年13・50昭和20年,当町各寺院は東京方面からの学童疎開を受け入れた同45年浦町1~2丁目・京町の一部となる...

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寺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治19~22年3月は松江寺町江戸期は出雲国意宇【いう】郡のうち松江城下の町名の1つ天神川の北側に位置し,西は天神町に隣接曹洞宗浄心寺・宗泉寺,日蓮宗慈雲寺,浄土宗専念寺,真宗本竜寺など北隣の和多見町を含み10数か寺があり,門前町を形成このうち,日蓮宗慈雲寺・長満寺・久成寺・妙興寺,浄土宗誓願寺・称名寺・専念寺,真宗の本竜寺・明宗寺などは松江開府の際,能義郡富田【とだ】(現在の広瀬町)より移転した寺院当町の東側は寺後【てらうしろ】と呼ばれ各寺院の墓地があり,さらにその東側は沼沢地であった当町の南端の寺領100石を有する誓願寺の南には文政8年,松江藩人参方の役所が古志原より移転して置かれた文化8年以降防火組は和多見と共にと組に属し,火消夫20人を常備した安永8年の戸数425,安政5年の戸数406明治4年島根県に所属同9年の戸数497・人口1,503同12年寺町小学校は白潟小学校(灘町)に統合同22年からは松江市の町名同年の戸数442・人口1,498,大正12年の戸数508・人口1,928,昭和13年の戸数651・人口2,897人参方の役所は明治初期民間に払い下げられ,大正期まで営業が続けられた明治41年の国鉄山陰本線の開通で駅通りがつくられ,飲食店・映画館などができた東方の沼沢地も埋め立てられ市街地を形成していった昭和30年の世帯674・人口2,961,同35年の世帯711・人口2,822,同40年の世帯667・人口2,493...

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寺町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名唐人寺町ともいう江戸期は佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ佐賀城の北に位置し,町筋は唐人町に並行して南北に走る西は唐人町,東は愛敬島村,大財【おおたから】村に接し,南は十間堀川を隔てて白山【しらやま】町に対する町名の由来はもと大財村の定光寺の寺領であったことにちなむというが,明らかではない唐人町と同じく,寛永3年までの城下図には町名が見受けられず,城下図に描かれるのは正保年間以降なので,城下町に編入されたのは正保年間以降であろう竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では124,元文5年屋敷帳では91嘉永7年唐人寺町竈帳の総竈数120(明家9),人数513(男266・女247),身分別竈数は侍2・家来2・徒士8・中小姓2・足軽17・職人3・被官8・その他の有姓者7・僧2・町人60,とくに多い職種の竈数は日傭取12・野菜屋9・大工9・木挽8日傭取や野菜物売が目立ち,郷村に近い町としての特色がうかがえる宗派別竈数は一向宗57・禅宗56・浄土宗20・法華宗20・天台宗1・真言宗1寺院は一向宗厳浄寺があり,元和2年創建と伝える(寺社差出・灯炬)「明治11年戸口帳」によれば,戸数141・人口538明治22年佐賀市に所属昭和42年佐賀市唐人1~2丁目となる...

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寺町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の通称町名江戸期には風早【かざはや】町1~4丁目・本町1~4丁目・室屋町1~4丁目,明治22年からは今治【いまばり】町大字風早町1~4丁目・本町1~4丁目・室屋町1~4丁目,大正9年からは今治市風早町1~4丁目・本町1~4丁目・室屋町1~4丁目のうち慶長8年藤堂高虎による町割り以来,城下町の北西端に寺院を配したので自然に寺町(通)の名が生まれた貞享元年の「今治藩領改帳」の今治村の項に町内6か寺・寺町8か寺と見え,これ以降の近世史料に寺町が見える享保元年の「今治町絵図」によると寺町通に法華寺・西蓮寺・大泉寺・円浄寺・円光寺・隆慶寺・大雄寺・光林寺屋舗・来迎寺と並び,明治初年頃までは前面には寺町川が流れ,マツ並木があったという現在の風早町4丁目・本町4丁目・室屋町4丁目のあたり...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2024年(平成36年)
425曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

今日を知る

今日の記念日

『国連記念日、歩道橋の日』

1945(昭和20)年のこの日、サンフランシスコ会議が開催され、国連憲章が作成されました。国連には、国連児童基金(UNICEF)や国連教育科学文化機関(UNESCO)など国際的なさまざまな機関があり、多種多様なボランティア活動が活発に行われています。

今日の暦

月齢:16

月齢:16
月名(旧歴日):十六夜(いざよい)/既望(きぼう)

・2024年(年/竜)
・4月(卯月/April)
・25日
・木
・Thursday
・先勝

二十四節気:「穀雨<
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・font>6日「
立夏<
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・font>10日


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