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- 富永荘(中世)とは
「富永荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 富永荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名伊香【いかご】郡のうち浅井郡と境を接する地域で,現在の高月町のほぼ全域と木之本【きのもと】町の石道・小山・田部のあたりが想定される荘名の由来は不詳であるが佳名か地域の大半は高時川の沖積平野で,涌出【ゆるぎ】山の南から南北に約4km,東西にも約4kmにわたる東部の高野・馬上【まけ】には丘陵地もあるが,他は大部分水田地帯洞戸【ほらど】・唐川【からかわ】・西野などには古墳,渡岸寺【どうがんじ】には平安期の観音像があり,古くから人が住み,開発も進んでいたようで,平野部には条里制の遺構がみられ,その坪は平行式であった成立過程は不明であるが,文永5年の梵鐘銘文写によれば,当時延暦寺領であったことが知られ,応永年間の文書にはこの地に「召次【めしつぎ】之下地」のあったことが見えている(井口日吉神社文書)鎌倉期伊香郡に,院に属して院の雑事を奉仕する「召次」なるものが存在していたこと,当荘の南に位置する丁野郷【よぼののごう】に「召次」がいたことが知られているから(黄葉記・経俊卿記),当荘にも鎌倉期以前には「召次」の存在したことが推定される井口の日吉神社の古文書は応永年間の富永荘の様相を伝える貴重な史料であるが,それによると,山門より各種の段銭・夫役が課せられるとともに,聖供米・大豆聖供等を貢納しており,高島郡木津【こうつの】荘・神崎郡栗見【くりみの】荘とならび,「三箇庄聖供」と呼ばれて重視されたなかでも当荘は「聖供領随一」とあるまた,当荘は,⑴荘園領主―惣政所―兼全(代官か)―中司 ⑵勘定衆―惣政所―中司 ⑶山門使節―惣政所―中司といった3つの支配の系列が考えられるさらにその在地の支配は,各郷に郷の荘官であり郷名を姓とする井口殿・渡岸寺殿・雨森殿といった土豪がおり,その下には沙汰人などと呼ばれる村落の上層農民がいて,一般の農民を支配していた中世後期にはこの郷を単位として惣村結合が形成され,年貢減免や用水の管理にあたっていたその後戦国大名浅井氏の台頭により,その勢力下に入り,惣村の上層農民のなかには浅井氏の家臣となるものもでたが,織田信長による元亀2年の山門焼打ち,天正元年の浅井氏の滅亡に至るまで,山門の膝下荘園として存続した(井口日吉神社文書)なお,近江国には坂田郡にも青蓮院領の富永荘があるので注意を要する |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 富永荘(中世) 鎌倉期から室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 富永荘(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 富永荘(中世) 室町期に見える荘園名加賀国石川郡大野荘のうち康正二年造内裏段銭并国役引付に「拾貫文 六月十五日 富永庄江州山門領 段銭」とあるこの富永荘は鎌倉期から南北朝初期に見える富永御厨の地にあったと考えられ(郷土辞彙),現在の金沢市寺中町付近の犀川【さいがわ】河口右岸の一帯に比定されるしかし延暦寺領の富永荘と御厨の関係は不明である... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」