ケータイ辞書JLogosロゴ 成恒名(中世)


福岡県>新吉富村

 鎌倉期〜戦国期に見える名【みよう】の名。豊前国上毛郡のうち。建長元年宝治合戦の勲功によって,相良長頼が当名地頭職に補任された(相良文書/鎌遺16253)。宝治合戦以前の当名は「上津美介もつすけ」の所有であったことが,建長3年3月22日付の長頼から子頼俊への譲状(同前/同前7302)によってわかる。正嘉元年9月14日には頼俊が成恒名地頭職を安堵され(同前/同前8145),さらに頼俊は弘安10年5月2日,ははの名屋敷1所・水田2町1反を頼季に,末光名屋敷1所・水田2町2丈を頼里に譲り,残余を女子宇葉伊路に永代譲渡している(同前/同前16253)。同日の成恒名田地坪付屋敷等注文によれば,宇葉伊路に譲られた成恒名には,今吉名・庄屋今吉名・井上名・太郎丸名・岩丸名・吉弘名の6名田が含まれ,除田・散在分を合わせ22町9反になるが,その他,さらに本在家として今吉薗・庄屋今吉薗・井上薗・太郎丸薗・岩丸薗・吉弘薗・寺薗があり,脇在家として弓細工大夫三郎作薗・又次郎薗・弥三郎薗・つか八らの屋敷・佐次郎入道屋敷・馬次郎作薗・こりやうのきふね薗の14か所もあった。成恒名はこれらを含む大きな名田である。その後,鎌倉幕府が滅んだ元弘3年10月18日の頼俊の孫にあたると思われる藤原頼広の代官職宛行状(成恒文書/大分県史料8)では,「成経名」の相良氏代官職について,道心一期ののちは兵庫三郎種元の子孫にもたすよう,定めている。年貢は50石であった。建武4年10月21日の相良定頼代成恒松石丸軍忠状(嘉穂地方史)によれば,成恒松石丸(種貞)は尊氏方として佐竹重尚について筑前国嘉摩城で合戦している。南北朝期に入ると肥後の相良祐長は南朝方につき,成恒名の地頭相良定頼は北朝方についた。興国2年4月28日の相良祐長軍忠状(相良文書/南北朝遺1654)には「祐長本領等者,為御敵兵庫允定頼(祐長甥)悉被押領了」とあり,安堵の綸旨を後村上天皇に要請しているが,そのなかに成恒名18町が見える。興国4年3月12日の相良祐長置文(同前/同前1902)では当名は相良頼房知行と定めている。一方,相良頼里に譲られた成恒名内の末光名田地2町2杖,屋敷1か所については,永和3年の成恒種仲申状(成恒文書/大分県史料8)で,頼里が他人に譲与したことについて,惣領の許可がなく無効であるとし,別符隼人佑種卿の違乱を停止するよう九州探題に訴えている。室町期に入り,応永7年5月9日の少弐貞頼書下では,下毛郡田島崎に住んでいた成恒種隆に成恒名地頭職が認められている。成恒氏は南北朝期から室町期にかけて次第に有力在地領主として成長したもので,大蔵姓成恒氏と宇都宮一族の成恒氏の二家があるが,成恒名地頭職を得たのは大蔵姓成恒氏である。戦国期に入り成恒氏は大友氏の被官として活躍し,弘治2年5月20日の大内義長下文で杉重輔跡地,成恒内10町を成恒輔家が宛行われている。また天正8年12月2日の成恒鎮直知行宛行坪付では「近年吉弘殿御知行之十町,成恒名」と見え,天正9年12月13日には大友義統が,成恒鎮直の築地切寄の軍労に対し,同人に成恒名10町を預け遣わしている(以上,同前)。なお,当地には田島崎城跡があると伝えられているが,堀跡や字名等からみてその位置は吉富神社のある台地に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442208
最終更新日:2009-03-01




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