ケータイ辞書JLogosロゴ 新多村(近世)


福岡県>小竹町

 江戸期〜明治22年の村名。筑前国鞍手郡のうち。新田村とも書く。慶長年間頃まで勝野村に属した(続風土記拾遺)。慶長5年立村の説もある(小竹町史)。福岡藩領。ただし,元和9年〜延宝5年および元禄元年〜享保5年は直方【のおがた】藩(東連寺藩)領。村高は,「天保郷帳」611石余,ほかに枝郷山崎村158石余,「旧高旧領」535石余。産土神は絹干社(絹干神社)で,集落の西南3町ほどの林の中にあった。古くは集落の中に社があったといい,祭礼には旧社の地の櫟及池の水を用いて神饌を炊いた。また,11月の祭礼には勝野村まで神幸があったという(続風土記拾遺)。文久4年入庄屋原田伊右衛門を迎えた。同年の戸数59・人数218(男116・女102),牛28・馬5。山崎村は,幕末・維新期までに新山崎村に編入された。明治初期の戸数59・人数298(男160・女138),牛45・馬7,田31町余・畠16町余,大縄田畠2町余,南良津【ならづ】村内の飛地は水害を多く受けたといい,物産は石炭で,村内に石炭礦場5か所,川艜17隻があり,正税は米・大豆225石余,雑税は米・大豆6石余と金2円余(地理全誌)。同7年村内の乱橋に小学校開校。同22年勝野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442221
最終更新日:2009-03-01




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