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- 西魚町(近世~近代)とは
「西魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 西魚町(近世~近代)
江戸期~昭和46年の町名江戸期は小倉城下の1町紫川と板櫃川に挟まれ,小倉城の北に位置する西曲輪のうち江戸期は単に魚町と称することが多かった毛利勝信在城時代は片側...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7442239]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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西魚町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ町名は魚屋が集住していたことにちなむ佐賀城の西に位置する北は伊勢屋本町の南端に連なり,町並みは伊勢屋本町の南端から南行し,北は八丁馬場口まで至るが,途中で東西の町並みと交差し,東西の町並みの東は川原小路,西は正丹小路と接する南端部の八丁馬場は与賀神社の神領で,当町に含まれており,当町の南端より南行する町並みと突きあたりの東西に走る町並みからなり,東は与賀【よか】馬場,西は神地(新地)に接する町全体の長さは94間余家数は,承応3年佐賀城廻之絵図では73,元文5年屋敷帳では104嘉永7年西魚町竈帳の総竈数96(明家2),人数487(男251・女236),身分別竈数は手明鑓1・徒士7・中小姓1・足軽37・職人2・被官15・仲間1・社人1・町人29,とくに多い職種の竈数は肴屋11・日傭取8・小間物屋6これによれば,身分別には足軽・町人・被官が多く,職種で多いものはやはり魚屋であるこのほか,饅頭屋・豆腐屋が八丁馬場に多く居住しているが,これは八丁馬場の東隣に与賀神社の下宮があったためで,下宮の社人で饅頭屋を経営しているものもいる嘉永7年の宗派別竈数は,一向宗35・禅宗29・浄土宗17・法華宗3「旧高旧領」では西魚町の高9石余,八丁馬場の高8石余とある「明治7年取調帳」では枝町に八丁馬場・新地がある「明治11年戸口帳」によれば,戸数130・人口573明治22年佐賀市に所属昭和7年東西貫通道路が通じたため,当町は南北に分断された一部が同45年佐賀市伊勢町となる八丁馬場の北島家・堤家・小部家は江戸期以来の場所に残っている |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西魚町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称元和4年小笠原忠政の明石築城の際に成立した町享保6年改によれば,役門35軒6歩5厘,家数86(本家31・借家55),建家表地口220間1尺5寸,人数372,大屋佐太郎の北の横丁南北94間を檜物屋町と呼んでいる(金波斜陽)樽屋門の南,中町(もと信濃町)の北側にあたる東魚町が生魚を取り扱っていたのに対し,干魚を中心にこんぶ・塩物など海産物を扱っていた(明石市史)町内には医師として針立本田次郎兵衛・本田玄作・神部寿仙がいた(播州明石記録)文化13年西魚町の塩魚商のうち8人が生魚商の仲間に加入して生魚を売買していたが,大年寄より町の定を乱すとして禁止され,代表で西魚町肝煎の島屋喜兵衛が後日のため一札を入れているなおこの時,西魚町の塩魚仲間は20名であったこれ以降東魚町・西魚町の商が厳しく区別されるようになった(明石名勝古事談)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日空襲により79戸が全焼(明石市史)同47年本町1~2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」