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- 西紺屋町(近世~近代)とは
「西紺屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 西紺屋町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は小倉城下の1町「にしこうやまち」ともいう小倉城の南西に位置し,旧板櫃川に近接する西曲輪のうち江戸期は単に紺屋町と称することが多か...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7442262]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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西紺屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名文政13年から1~2丁目がある江戸期は和歌山城下広瀬のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の東部,大橋西詰東西の町並み広瀬通丁から北へ紺屋橋西詰八軒丁に至る道路沿いに位置する表紺屋町とも呼ばれた(続風土記など)文政13年丁目を付し,南部を1丁目,北部を2丁目とした(御城下内町名唱替御通し写/秦野家文書)古町であるため地子は免除,町入用は間打・棟役で負担した「町大年寄御用留」によれば,安政3年と元治元年に当町平野屋茂兵衛(仲助)などが焔硝製造のため市中床下土採取の許可をうけている(竹内家文書/県史近世2・和歌山市史5)明治5年八軒丁の一部を編入同6年には1丁目の戸数63,男114・女112,2丁目の戸数81,男135・女133大正2年141戸・655人昭和20年7月の空襲では全町焼失の被害をうけた |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西紺屋町(近世~近代) 江戸期~昭和5年の町名「にしこんやちょう」とも呼ぶ首都高速道路沿いの南北に細長い区域かつては外堀に面していた町名は北紺屋町・南紺屋町と同じく,国役を負担する染物師の居住地であったことによる寛文~宝暦年間頃までは南紺屋町と称し,1~4丁目があったが,のち2~4丁目が独立し西紺屋町となった明治元年東京府に所属同5年の戸数90・人口416(府志料)同11年京橋区に所属昭和5年銀座西1~4丁目に編入現行の銀座2~4丁目の西側で各2番にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」