ケータイ辞書JLogosロゴ 西牟田村(中世)


福岡県>筑後市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。筑後国三潴【みずま】郡三潴荘のうち。正治3年2月11日の某家政所下文(寛元寺文書/鎌遺1183)に,「三潴庄内西牟田村」と見える。同文書によると,西牟田村住人実顕法師が3間の観音堂を造営し,その仏聖灯油料に村内の2町を寄進するとあり,後の寛元寺創立に関係するものであろう。仁治2年7月日「西牟田村名主行西」は,村内の阿弥陀・観音両堂に荒野5町を寄進しその地は不輸地とされた(同前/同前5914)。行西は西牟田氏を名乗り,名主層御家人(小地頭)であった。徳治2年7月6日行西の孫浄西は,顕実に寛元寺堂敷地および坊地を寄進したが,同10日の沽却状では60貫文で売却するとある(同前/同前23005・23006)。この地については,浄西の子西牟田有家と顕実・高橋法心らの間で相論となったが,正和4年10月16日の中原朝臣某奉書によれば,同3年11月27日鎮西探題北条政顕は顕実の勝訴とした(同前/三潴荘史料)。建武5年5月日,北朝方の某は寛元寺に軍勢が濫妨するのを停めている(筑後将士軍談/大日料6-4)。貞和3年10月19日,沙弥慈法は西牟田内6反を10貫文で寛元寺の雲山に売却(寛元寺文書/南北朝遺2388),明徳2年2月10日西牟田長西は西牟田高屋内4反を寄進(同前/三潴荘史料),同4年2月4日平時講衆が長西から相伝した高屋内寺後5反を寄進,さらに応永18年3月5日には同じく高屋内寺後1町を寄進している(同前/県史資料10)。この1町は,西牟田長西が村内の霊鷲寺に売却したものを講衆が28石で買い戻し,寛元寺に寄進したものである。永仁4年12月日の玉垂宮大善寺仏神事写(隈文書/鎌遺19238)によると,西牟田村は三潴郡東郷に属し,三潴荘鎮守玉垂宮大鳥居免田3町があって,玉垂宮6月朔幣料米5斗,2月中卯日の春祠使幣6斗,五月会の村田楽と左方相撲人,九月会の16番祭頭の勤仕と分米5石1斗を負担した。貞和3年9月日および同22日の玉垂宮・大善寺免田注文写(御船文書/南北朝遺2370・2371)によると大善寺の知行する定額田3町と玉垂宮大鳥居免田3町が西牟田村にあり,同23日の高良宮祭料神役村々注文写(同前/同前2372)には西牟田村の負担する春祭分仏神事役として,「祭料米六斗 六月朔幣料米五斗 祭頭 九月会 村田楽 尻巻 相撲 拝殿一間 大善寺檀供八枚」とあり,永仁4年より若干増大している。村内の霊鷲禅寺には「西牟田霊鷲禅寺時永徳二暦」と記す雲板があった(鹿児島県史料拾遺65)。文案(安)6年11月15日の日付を持つ大般若経奥書(光浄寺文書/三潴荘史料)に「三潴庄西牟田三島大明神宮」とあり,播磨守藤原為家が施入している。応永12年7月26日の九州探題渋川満頼書状によれば,同年7月24日,満頼は肥後菊池常朝討伐のため西牟田を通過した(詫摩文書/大分県史料12)。天文3年西牟田氏は筑後守護大友義鑑に反して大友氏と戦い,さらに同19年7月西牟田親氏は三池・溝口氏などとともに大友方の横岳・田尻・蒲池氏らと交戦した。9月3日の道雪書状によれば,天正12年8月28日,上妻郡猫尾城を攻略中の戸次道雪・高橋紹運らは転じて肥前竜造寺方の坂東寺・西牟田などに侵入した(薦野家譜/大日料11‐8)。天正6年3月書写の筑後国領主付に「西牟田左衛門居三潴郡西牟田領三十町」と見える(大友史料24)。同15年7月18日の大善寺寺領注文(歴世古文書/三潴荘史料)によると,同寺領6反が西牟田内にあった。同年6月,立花宗茂は豊臣秀吉から三潴郡など下筑後を与えられ柳川を居城と定めた。柳川城請取りのため家老の小野和泉守・家臣城戸清種が先行,6月11日清種は西牟田に宿した(豊前覚書/博多史料8)。同年9月2日宗茂は薦野掃部介に「西牟田之内,牟田・侍島七十町七反代官職」を預けている(薦野家譜/県史1-下)。文禄4年の筑後国知行方目録に,「参千七百参拾五石九斗九升 西むた村」とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442307
最終更新日:2009-03-01




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