ケータイ辞書JLogosロゴ 土師荘(古代〜


福岡県>桂川町

 平安期〜戦国期に見える荘園名。穂波郡のうち。「安楽寺草創日記」によれば,安楽寺往生院領として万寿元年に当荘117町230歩が寄進され,また同寺宝塔院修正会の衣服料として稲780束が充当されており,さらに天徳2年小野好古によって始められたという曲水宴の供料は当荘に充てられたという。承徳2年4月5日の筑前国安楽寺牒案(根岸文書/平遺1396)には,観世音寺領碓井封山口村に安楽寺神人らとともに乱入して乱暴した当荘々司が見える。当荘々司は安楽寺権勾当の随身(所従)と称しており,安楽寺の勢威を背景に近接する地域にまで勢力を伸張させたことがうかがわれる。嘉暦3年には当荘内にあった天満宮末社が造営されている(太宰管内志)。老松社は当荘の荘鎮守社であったろう。暦応4年12月20日,当荘内の翁丸【おうまる】15町は,足利尊氏から景福寺(安国寺)へ寄進され(相良家文書/大日古),貞和6年10月25日足利直冬はそれを安堵している。享徳3年8月日に安楽寺公文所は,寺領荘園の諸所に御祭田楽酒直を課しているが,そのなかに当荘の名も見える(太宰府神社文書/博多史料2)。年未詳であるが,明応6年以後とみられる正月26日付の少弐高経書状(河上神社文書/同前3)に土師郷と見え,天文21年12月20日の大内義長下文(萩藩閥閲録110)には,大内義長から石川種吉に宛行った所領中に「穂波郡土師村七町〈相良新右衛門尉・舌間刑部丞跡〉」と見える。これとほぼ同時期,天文18年7月4日の碓井武資書状(清末文書/嘉穂地方史古代中世編)には,清末中務丞方の下女が当荘内に逃げ込み,当地の領主土師宮内丞にその引き渡しを命じたが,それを隠匿して渡さないと述べている。この書状には別に土師経重の名も見え,当荘を基盤とする在地領主土師氏の実態がうかがわれる。なお戦国期大内氏被官として登場する土師氏は,当荘の土師氏である可能性が高い。永禄3年8月19日の御祭騎馬貫首支配帳(大鳥居文書/博多史料5)に当地の名が見え,天満宮領として存続したことが知られる。永禄11年と推定される11月10日の毛利元就書状(萩藩閥閲録49)によれば,毛利氏からその被官粟屋四郎右衛門尉に「土師之内給所五段大」以下が安堵され,当地が毛利氏支配下に入っていることが知られる。なお天正年間の「指出前之帳」には「土師村」と見え,田92町余・分米1,788石余,畠19町余・分大豆124石余とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442493
最終更新日:2009-03-01




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