ケータイ辞書JLogosロゴ 浜町村(近世)


福岡県>苅田町

 江戸期〜明治22年の村名。豊前国京都【みやこ】郡のうち。小倉藩領。新津手永に属す。村高は,「正保国絵図」20石余,「元禄国絵図」28石余,「天保郷帳」46石余,「旧高旧領」59石余。元和8年の家数24・人数60(男29・女31),牛1・馬2,水夫・鍛冶屋・舟大工・塩売がいた(人畜改帳)。享保飢饉の餓死者は150人(開善寺過去帳)。忠基公年譜(県史資料7)には「苅田村浜町紺屋八兵衛居屋敷ヨリかます入古銭堀出」とあり,郡典私志には浜町弥三兵衛は屋敷内より古銭を掘出しそのまま奉献した褒美に「七商売無運上ニ被仰付」とある。「小倉市誌」によれば,小倉京町商人新屋は苅田【かんだ】村浜町に抱屋敷所持と記事があり,早い時期から商業資本の進出が行われていたものと思われる。字岡屋敷に豊国神社(祭神豊日別命),字神ノ島には市杵島神社がある。市杵島神社は正徳年間の京都郡神社記では弁才天社と見える。天明年間の寺院聚録によれば,字辻堂に地蔵堂があった。主産業は漁業・海運。享和2年の菱屋平七の「筑紫紀行」では浜松村と見え,「農人漁者ノ家四,五十軒」と記される。天明3年の古松軒の「西遊雑記」には,「苅田ノ沖ニ神島ト称セル有リ。弁才天ノ社モ有リ……風景ノ島ナリ。ムカシ百合若大臣ノ愛セシ鷹ヲハナシ給ヒシヨリ,今モ鷹多シト云ヘリ。何鷹ニヤ。予此島ヘ行ズ。今年ヨリ四年已前ニ神島ニ里竜天上シテ,漁家三十余軒空中ヘ巻アゲ死亡セシモ多カリシト里人物語リヌ。是ハ虚談ナラズ。実ノ事ニ聞エシ」とある。明治3年の戸数58・人口278(男130・女148)。同18年の地積は田5町余・畑1町余・宅地1町余。明治11〜13年小学校盈進校開設,苅田村など4か村児童が通学。同22年苅田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442622
最終更新日:2009-03-01




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