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原田荘(中世) 室町期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
原田荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名筑前国怡土【いと】郡のうち原田荘は大宰府々官の原田氏の開発・経営に始まり,原田種直が平家方に与同して没収された「岩門少卿種直跡三千七百町」(武藤系図)の中心はこの原田荘であったと考えられている原田荘の史料上の初見は寿永元年12月日の大蔵某寄進状(藤瀬文書/平遺補137)であり,「大宰少弐兼地頭大蔵」某が原田荘内飽田郷5図11里3坪の免田1町を塔原寺観音堂に寄進するという内容のものであるこの大蔵某は原田種直と考えられ,源平合戦以前の原田氏と原田荘との関係を示唆している源頼朝が原田荘を中心とする種直跡を少弐(武藤)資頼に給付したため,原田荘の支配権は原田氏に代って少弐氏に握られることになった少弐氏と原田荘との関係を示す最古の史料は正嘉3年4月25日の少弐資能下文(雷山文書/鎌遺8363)であり,大宰少弐・筑後守藤原朝臣資能が原田荘内楠田寺の造営を僧舜幸に命じているが,これによって同荘に対する少弐氏の支配の実態を推測することができる弘長元年11月24日の中原吉国寄進状によれば,楠田寺は「原田庄御願所」であった(同前/太宰管内志)先の原田荘内塔原寺については,永仁元年10月14日少弐盛経書下によれば盛経が乗光に同寺院主職を安堵した事実がある(藤瀬文書/鎌遺18390)少弐氏の原田荘内の寺院支配の一端を示すものであるちなみに建長8年9月29日崇徳院御影堂領目録(華頂要略55上/同前8042)には粟田宮社領として筑前国原田荘が掲出されており,これによれば原田荘の領家は粟田宮ということになろうか少弐氏の重要な経済基盤としての原田荘は南北朝期に入ると軍事上でも枢要の地位を占めた原田荘の中心に築かれた原田城は糸島地方の中小国人に支えられた少弐氏の筑前における重要な軍事的拠点としての役割を発揮した少弐氏の原田荘における支配は戦国期まで継続したと考えられているたとえば,嘉吉2年3月5日の少弐教頼寄進状(雷山文書/県史資料10)によって少弐教頼が原田荘内木迫1町3反余并びに段別諸済物を先例に任せて雷山中御坊に寄進していること,文明5年8月28日の少弐政資安堵状(同前)がそれを再確認していること,などの事実がその根拠である南北朝期には原田氏の活躍も注目される現在の前原【まえばる】市一帯に当たると考えられる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」