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- 平塚(中世)とは
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平塚(中世) 室町期に見える地名豊島郡のうち地名の由来は,上中里の平塚神社境内にある甲冑塚が高くなかったことによるという説が伝わり(新編武蔵・江戸名所),また古くより古墳があったためという説もある(北区史)平塚神社は豊嶋氏の館跡の一部といわれ,源義家が後三年役の途上,この館に泊まり,帰途豊嶋氏に謝礼として鎧と観音像を贈り,その後元亨年間に至って豊嶋氏が鎮護のためその鎧を埋めて塚を築き,義家兄弟と義光をまつったのが起こりだといわれる(新編武蔵)義家兄弟が敵の首を埋め,「平ケ塚」と名づけたのが平塚の由来とする異説もある(新編江戸名所図誌)「鎌倉大草紙」は文明9年4月13日の豊嶋一族と太田道灌との戦いを記録し,そのなかに平塚城の名前がでている戦国期には小田原北条氏の家臣で江戸衆の太田大膳亮の所領に「三貫文 平塚内平五屋敷」,太田康資の所領に「三十貫文 江戸平塚本郷」,同人の寄子の配当地に「十五貫文 江戸平塚内田端在家岸分」,また平塚藤右衛門の知行地に「二十貫文 江戸平塚内西原」,他国衆の案独斎(上田朝直)の知行地に「江戸廻平塚之内中里」,葛西様(足利義氏)御領として「百廿一貫五百文 江戸平塚」と6か所に見える(役帳)現在の北区西ケ原・上中里・田端【たばた】のあたり |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平塚(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」