ケータイ辞書JLogosロゴ 福島村(中世)


福岡県>筑後市

鎌倉期〜室町期に見える村名筑後国下妻郡水田荘のうち正中2年6月18日,菅原資兼は見沢美濃公に「福島村内小榎屋敷」を23貫文で売却した(太宰府天満宮文書/天満宮史料10)暦応2年4月9日,北水田蓮信は「福島村内□(下)牟田」田地などについて,大鳥居信高と和与をした(太宰府神社文書/南北朝遺1323・1364)下牟田は福島村内であったが,正平18年8月20日の征西将軍宮令旨(大鳥居文書/同前4505)に単に下牟田とあり,以後の文書にも「福島村内」となく下牟田(村)とあるから,福島村から独立したものと思われる文和2年8月7日,一色範光は逆徒征伐のため福島村内の地を天満宮に寄進している(太宰府天満宮文書/同前3582)永徳元年5月27日,水田荘領家菅原長衡は参洛した大鳥居亀松丸を福島村預所職ならびに下司職に任じ,それをうけて8月18日,九州探題今川了俊は福島村給人中賀野方代官に周知させるように長瀬尾張守に命じている同2年7月19日から翌年4月9日にかけて了俊は,福島村の領家への京済年貢76石余を給人や小地頭(永里土佐守・福嶋弾正忠・中村蔵人)らが抑留するのを,数回にわたって禁止している同3年10月17日の今川了俊(貞世)書下には,領家年貢収納のため京都から領家使者が下向したことが見える幕府は同年5月2日,「福嶋村前下司兵衛蔵人資兼跡」を違乱する押妨人を退け,その土地を社家雑掌に渡す処置を取ることを了俊に命じたこの頃菅原長衡は,6月18日付の了俊宛の書状で,「北水田庄三方〈南島・北島・福島〉」のうち南島・福島は大鳥居信栄の所務とする由を述べている明徳3年6月27日今川貞臣は,「福島寺社用領家年貢」を納入しない給人中賀野と小地頭らの知行する土地の半分を,安楽寺雑掌に渡す手配をするよう新庄駿河入道・河崎出羽守に命じており,7月20日,領家菅原久長は大鳥居法眼某を福島村代官職に任じた応永2年閏7月25日の天満宮領筑後国所領注文に,水田荘福島村が見える年月日未詳の某書状には,水田の本村を嫡子大鳥居に,北島村を次男小鳥居に,福島村26町6反余を三男浦坊に譲るとある(以上,太宰府天満宮文書/水田荘広川荘史料)江戸期の井上村の前身と考えられ,現在の筑後市井田のうちに比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7442942
最終更新日:2009-03-01




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