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- 船町(近世~近代)とは
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船町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は吉田城下二十四町の1つで,表町のうち明治初年から明治22年まで豊橋を冠称吉田城の西に位置し,町並みは南北に続き,東は田町に接する吉田湊があり,船役町慶長5年池田輝政から船役を課され,地子免許とされたという船番組が組織され,吉田湊から移出される18品目と渡海往来者の運賃に対して上前銭徴収権が与えられたこの権限をめぐり,寛文4年前芝村と,同10年下地村と,貞享3年吉田宿商人と,元禄2年高足村と,同8年・文化5年大崎村と,同11年草間村と,寛政10年熱田【あつた】・佐屋宿との間で争論が起こったが,当町に有利な結果となった貞享5年の家数90,町並み211間1尺,道幅4間正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数84・人数548,江戸廻船4,伊勢・尾張通船17寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数113・人数511同年の吉田弐拾四帳指出帳書抜では高107石余,出火時出役人足35,庄頭1・船大工1・乗物師1・石屋2・傘屋1・指物師1・髪結1,江戸廻船1,伊勢・尾張通船13(豊橋市史)文政2年の家数83,天保9年の家数84浄土宗竜運寺があり,享和3年と文化2年に伊能忠敬が測量の際に宿所とした明治9年の合併村願書では戸数141・人数520(徳川林政史研究所蔵)同10年の地価取調帳によれば,面積1万8,199坪余・地価1万1,500円余同11年境町を合併同22年豊橋町,同39年からは豊橋市に所属昭和13年には豊橋荒物卸商組合の事務所があった(豊橋商工案内)同33年花田町の一部を編入し,一部が大橋通1~3丁目・湊町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
船町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称宝永6年改の明石15町の中に船町の名が見え,これ以前に成立していたと考えられる(明石城下町絵図)享保6年改によれば,役門22軒2歩5厘,家数237(本家58・借家179),建家表地口230間,人数1,088,町内の阿波屋吉左衛門の北側の丁を笘屋町,佐野屋助右衛門の角より西の方へ行く丁を塩屋町,塩屋吉兵衛の角より西の方へ行く丁を風呂屋町と呼んでいる(金波斜陽)享保2年当町から戎町が独立(同前)明石港に接し波豆崎に至る一角を形成している町で,廻船業者や船鍛冶・船大工が住んでいたためこの町名が生まれた(明石市史)波戸崎の近くに船大工が10軒あった(金波斜陽)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日空襲により55戸が全焼(明石市史)同39年材木町・港町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
船町(近世~近代) 江戸期~現在の町名「ふねちょう」とも呼ぶ蒲生【がもう】郡八幡【はちまん】町66か町のうち(郡町村区別簿)八幡町開設当時,船着場があり,また代官所が設置されたという(八幡町史)明治以降は無人となったが,歴史的記念のために地名を残した明治5年滋賀県に所属同22年の町制施行後も引き継がれ,昭和29年現行の近江八幡市船町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」