ケータイ辞書JLogosロゴ 豆田(中世)


福岡県>桂川町

 南北朝期から見える地名。筑前国穂波郡のうちか。文和3年12月17日の一色道猷寄進状(大鳥居文書/南北朝遺3755)によれば,一色範氏(道猷)は天満宮安楽寺和歌所へ武藤豊前五郎入道興恵跡の「穂波郡国次名〈号豆田村〉田地拾町」の地頭職を豊後国球珠郡書曲村の替地として寄進している。国次名の別称が豆田村であったことが知られる。天文21年9月18日の大内家奉行人連署宛行状案(萩藩閥閲録巻110)によれば,大内義隆は吉久なる者に「嘉麻郡豆田弐町〈聖福寺領,半済分地〉」を宛行っている。弘治3年9月23日付の聖福寺領当知行目録(聖福寺文書/県史資料9)に博多の聖福寺宝浄院領として「穂波郡内大豆田参町大」と見え,豆田と大豆田は同一のものと見られる。さらに貞和3年3月10日の沙弥涌念置文写(反故迺裏見来之巻十八所収文書/南北朝遺2314)に「(穂か)浪郡大豆村田地十六町」と見える大豆村は大豆田村と同じものか。大豆田村は,年未詳ながら南北朝期と推定される相良定頼并一族等所領注文(相良家文書1/大日古)に肥後の相良氏一族と思われる斎藤十郎分として「大豆田村田地拾伍町」が見え,それは武藤大豆田小五郎跡とあるから,大豆田を苗字とする少弐氏一族の存在が知られる。文明10年11月4日の毛利房信打渡状案(大内氏実録土代/嘉穂地方史古代中世編)によれば,大内政弘の命令をうけて毛利房信が内野孫太郎跡10町のうちの「大豆五町地」を河津掃部允弘業代に渡付しているが,明応6年6月21日の大内義興下文(河津伝記所収文書/宗像郡誌下巻)によれば,大内政弘の代に与えられた「大豆塚五町地」の代所として三笠郡内野村3町を河津掃部允弘業に領知させており,大豆は大豆塚とも称したことがわかる。なお,天正年間の「指出前之帳」にも「大豆田村」が見え,田9町余・分米137石余,畠1町余・分大豆9石余とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7443316
最終更新日:2009-03-01




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