ケータイ辞書JLogosロゴ 水田荘(中世)


福岡県>筑後市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。筑後国下妻郡のうち。北水田荘とも称す。太宰府天満宮安楽寺領。建長2年6月3日,修理少別当大鳥居信全が「先祖相伝所帯屋敷名田」などを注進したなかに,「北水田御庄内 庄司職 北島屋敷并在家田畠等」と見える(太宰府天満宮文書/鎌遺7199)。南北朝期の年未詳6月18日,領家の菅原氏長者菅原(高辻)長衡は九州探題今川了俊宛の書状で,「北水田庄三方〈南島・北島・福島〉」が「半済」により「退転」していることを嘆き,自分は「将軍(足利義満)家文道御師範」である縁で水田荘を一円支配する御教書を得たので,そのとおり実行して欲しい旨を書き送った(大鳥居文書/水田荘広川荘史料)。南島は水田荘の中心地域で,嘉禄2年菅原為長によって創建されたという水田天満宮があり,本村とも称された。暦応2年4月の北水田蓮信和与状からは下牟田がこの時期福島村内に含まれていたことが知られ,水田荘は下妻郡内の大半を占めていたことがわかる。南北朝初期,この3村で200町歩余の荘園であったが,大鳥居信高の水田移住とともに拡張され,室町末期には600町歩に及び,安楽寺領のうちでもその経済を支える最も重要な荘園となった。康暦3年3月14日,熊野山領上妻郡広河荘鎮守社雑掌惣地頭代光顕と,天満宮領下妻郡水田荘大鳥居雑掌貞蓮は,「両庄堺牟田」について相論の結果和与をしている。相論は,正平24年4月15日故大鳥居信高が堺牟田に老松社を造立しようとしたのを,広河荘の新熊野神人が妨げたことに端を発しており,老松社は「水田本堺内社壇」に移築し「両庄本堺之通」を守るということで和与が成立した。永徳3年5月2日将軍足利義満は,溝口太郎などの武士や坂東寺衆徒による南島村・北島村の半分押領を停めさせ安楽寺の一円所務とすること,福島村については土地を雑掌に渡す処置を取ることを,九州探題今川了俊に命じた(以上,太宰府天満宮文書/同前)。北島は領家の一族小鳥居氏が,福島・南島(本村)は同じく大鳥居氏が預所などの荘官として支配していた。応永30年9月7日の領家御教書(歴世古文書/同前)によると,北島村を小鳥居方に預け置いたところ10年にわたって年貢を京進しないので,大鳥居角幸全を代官職に任ずると見える。文安5年の水田荘田地坪付ならびに同時期の水田荘南島村在家雑免坪付によれば,水田荘南島村では18の百姓名がほぼ2町5反前後の均等名に編成されていた。戦国期の年未詳12月6日の大鳥居信元灯明方注文には「水田庄」が見えるが,永禄13年2月27日の大友氏禁制は「水田村」に対して出されており,この頃から次第に荘名を失っていったものと思われる。天正15年10月13日,立花統虎(宗茂)が大鳥居信寛に安堵した所領中に,「一処四拾三町〈上下〉水田居屋敷」とあり,この時も大鳥居氏が水田に居住していたことが知られる(以上,太宰府天満宮文書/同前)。現在の筑後市水田を中心とする一帯に比定される。なお,前記に見える南島村・本村の地名は,ともに江戸期の水田村の前身と考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7443377
最終更新日:2009-03-01




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