ケータイ辞書JLogosロゴ 席内院(中世)


福岡県>古賀市

 平安末期〜南北朝期に見える院名。はじめ宗像郡か。のち粕屋郡のうち。永久元年11月8日の日付をもつ銅経筒に「筑前国席内院 願主僧良意 金主吉野常元」と見える(経塚遺文)。南北朝期になって,観応3年2月の安楽寺領注進目録には「席内院清里名」が見える(西高辻文書/大日料6-17)。康暦2年10月25日,広井(薦野)刑部丞に宛てた九州探題今川貞世書下には「天満宮領筑前国席内院重久名領家年貢事」とあり,薦野氏の年貢押領を停止している。同年11月3日にも今川貞世は新開因幡権守に令して,重久名の領家年貢に対する薦野刑部丞・根田美(米多比)以下の輩の押領を停止させている(太宰府天満宮文書/天満宮史料12)。その後,正平17年11月25日付安富泰重軍忠状に「筵打御発向」の記事がある(深江文書/大日料6-24)。また,康永4年には香椎社雑掌が「当社領筑前国席内・橘口両郷地頭大友近江右近将監宗匡」の神用米対捍を訴えているが(熊本市某書店待買文書/南北朝遺2116),天満宮領席内院と香椎宮領席内郷の関係は未詳。下って戦国期の年欠(天正12年か)7月10日付立花道雪書状によれば,道雪は薦野増時に対して,大友義統の出陣延引を知らせ,さらに「西郷,筵内辺之衆」と申し合わせて油断なく待機するよう要請している(薦野家譜/大日料11-7)。薦野増時は,先の今川貞世書下に見える薦野氏の子孫と推定され,この時期には大友方の立花城督立花道雪に属していたことが知られる。現筵内集落の東に戦国期の古戦場団の原があり,南には豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に茶屋を置いたという茶屋山がある。東北には鷺城跡がある(続風土記)。天正年間の「指出前之帳」には「筵内村」と見え,田86町余・分米812石余,畠42町余・分大豆360石余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7443604
最終更新日:2009-03-01




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