ケータイ辞書JLogosロゴ 矢部村(中世)


福岡県>矢部村

 南北朝期〜戦国期に見える村名。筑後国上妻郡のうち。観応3年2月日の安楽寺領注進状案(太宰府天満宮文書/南北朝遺3340)に「夜部山」とあり征西将軍懐良親王方に押領されていた。応永2年閏7月25日天満宮の信満・信雄が同宮領筑後国不輸荘らを注進した中に「上下夜部村」がある(同前/大日料7‐2)。夜部山,夜部村は矢部村で,上夜部は江戸期の北矢部村,下夜部は矢部村のことと考えられる。この時期天満宮領であった。元中8年12月9日の五条頼治申状案によると,同年10月筑後守護大友親世の一族大友親氏と守護代如法寺氏信らは筑後・豊後両国の軍勢を率い五条頼治の本拠矢部を攻めたが頼治や黒木定善一族の奮戦により撃退された。矢部は「肥後筑後豊後三ケ国之堺,九州無双之要害」とある(五条文書/纂集)。これより先弘和3年征西将軍懐良親王は死去したがその地は矢部とする説がある。明徳3年8月22日五条良遠は「矢部大淵」を孫に譲っている(同前)。応永年中後征西将軍良成親王が矢部で薨じた。同32年6月12日良遠の子頼治は「河崎庄矢部村之内二津尾之石川」と「河崎庄矢部村下栖柳木助次郎」を頼経に譲与した(同前)。文明4年12月13日頼経の弟頼実はその長子良豊に代々相続の地「河崎庄矢部村大淵村」を譲与した(同前)。天正12年豊後の大友義統は黒木家永の里城を攻めたが,11月3日の大友義統書状によると,この時蒲池鎮運は大友勢に従って矢部に在陣した(蒲池文書/大友史料26)。年未詳であるがこの頃の五条氏屋敷並所領注文(五条文書/纂集)に「居屋敷矢部之村」とみえる。天正16年4月26日立花宗茂は当時肥後の矢部に居住していた矢部七郎左衛門尉(五条統康)に書を送り,柳川城を秀吉から拝領し満足しており「貴殿御本地矢部大淵辺迄,拝領之内」であって先日そこに行き所の者達と貴殿の噂をしたと述べている(同前)。なお,天正6年3月書写の筑後国領主付に「五条七郎右衛門居矢部栗原城」とある(大友史料24)。また,南北朝期から戦国期にわたり五条氏の居城であった高屋城跡の山麓に荘厳寺があり,寺の旧記によれば,正平年間懐良という僧の子勘寿丸(征西将軍懐良親王の子乾珠丸ともいう)の創建という。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7443875
最終更新日:2009-03-01




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