ケータイ辞書JLogosロゴ 山野(中世)


福岡県>稲築町

 室町期から見える地名。筑前国嘉麻郡のうち。山野別符・山野村・山野荘とも見える。応永7年10月24日。宇佐玄千(公吉)は重代相伝の所領である山野別符吉松名【みよう】田畠等を,長男吉松公興・次男吉松公直に譲っている(広崎嘉十郎氏所蔵文書/大分県史料8)。当地は宇佐八幡宮領で,この頃宇佐大宮司宮成公世の次男公浦に始まる吉松氏に伝領されていたことが知られる。しかし,戦国期にはいると頻繁に武家による押領をうけた。まず少弐氏の勢力下においては,文明2年10月3日宗国茂が山野村小長跡5町・大一丸名3町を赤坂主計允に打渡し(馬廻御判物帳/長崎県史史料編1),年月日未詳の少弐頼忠押領地僉議状案によれば,山野別符内の名を宗氏が押妨している(到津文書/大分県史料1)。大内氏の支配が及ぶと,文亀2年3月7日大内義隆は宇佐宮神領山野・立岩・椿弁分の雇夫諸典役以下を免除したが(同前/同前1)。天文年間頃と思われる宇佐宮領不知行地給主注文案では「山野内三名」が不知行となっている(同前/同前24)。大友氏の支配下となっても武家の押妨は続き,元亀2年かと思われる正月28日には到津公憲が秋月氏に対し山野・立岩の「糺返」を求めている(同前)。宇佐大宮司到津氏は大友氏に対し二心ありとして一時社領を没収されたが,年未詳8月15日大友宗麟は到津氏を宥し,同18日大友家臣臼杵鑑速・戸次鑑連が到津氏に山野30町・立岩17町を交付した(同前)。しかし武家による神領の押領はおさまらず,特に社奉行奈多鑑基・鎮基父子と神官たちとの確執のあげく,奈多鎮基が山野村に在宅していた宇佐大宮司到津公澄を殺害するという事態にまで及び,宇佐宮が衰退したため,天正7年4月神官らが鑑基の非道を訴えている(同前,小山田文書/大分県史料7)。なお,永禄7年2月28日の年紀をもつ若八幡神社の棟札によれば,当時の宇佐大宮司は到津公澄で,宇佐神領として「山野村別府,平恒村,西田村,入水村,高倉村」が記されている(嘉穂地方史古代中世編)。天正年間の「指出前之帳」には「山野村」と見え,田44町余・分米477石余,畠18町余・分大豆74石余であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7443975
最終更新日:2009-03-01




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