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湯原村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
湯原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
湯原村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国直入【なおいり】郡朽網【くたみ】郷のうち岡藩領大分川支流芹川左岸に位置するはじめ湯原【ゆのはる】組千石庄屋,のち同組大庄屋が置かれ,当村は江戸期を通じて湯原組10か村の中心地だった村高は「正保郷帳」127石余,うち田66石余・畑61石余,水損がち「見稲簿」「天保郷帳」ともに127石余,「旧高旧領」274石余小制札場が設けられていた(地方温故集付録)芹川沿いに御前湯・天満湯などの温泉が湧出していたため,藩では御前湯に湯守を置き,藩主をはじめ藩士の湯治場として利用(中川史料集)湯守に給米5石が支給(地方温故集)当村の鑰小野【かぎおの】から大分郡の肥後領野津原【のつはる】手永に流れている鑰小野井手(別名肥後井手)は元禄16年に岡藩と肥後藩の間で仮証文が取り交され,宝永6年までの6年間の歳月を要して3里13町6間の井手が完成(地方温故集)文化8年岡藩の百姓一揆が起こり,朽網郷の百姓も一揆に加わり,当村の大庄屋治右衛門宅を襲い家を打毀した(百姓騒動見聞記)明治4年大分県に所属同8年仲村ほか16か村と合併して長湯村となる現在の直入郡直入町大字長湯のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
湯原村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
湯原村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国国東【くにさき】郡真玉【またま】荘のうち真玉川中流左岸に東西に長く位置する慶長5年豊前小倉藩細川領,寛永9年木付藩小笠原領,同16年豊前竜王藩松平領,正保2年幕府領となり,松平木付(のち杵築)藩預地,元禄2年日田代官支配地,正徳2年日向延岡藩牧野領,延享4年からは同藩内藤領はじめ真玉手永に所属元和8年の村高176石余,家数31・人数52,牛9・馬2(小倉藩人畜改帳)「正保郷帳」の村高は130石余,うち田62石余・畑68石余,「見稲簿」153石余,延享3年142石余(国東郡寅物成割付写),「天保郷帳」は154石余,安政元年142石余(延岡藩高辻帳)「旧高旧領」154石余臨済宗万年山延命寺は享禄元年僧徳源の開基天保10年万年単道が寺子屋を開く明治4年大分県に所属同8年和田新田・金屋村・大村・徳六村と合併して西真玉村となる現在の西国東郡真玉町大字西真玉のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」