ケータイ辞書JLogosロゴ 吉富名(中世)


福岡県>吉富町

 鎌倉期〜戦国期に見える名【みよう】の名。豊前国上毛・下毛両郡のうち。両郡に広がる散在名であったと推定される。吉富名は公田として成立したがその時期はわからない。鎌倉期の建保5年1月22日大宰府守護所下文(末久文書/天満宮史料7)によれば,上毛郡司宗成等が吉富・貞富・多布原村・山国吉富名の地頭職をめぐって田部太子と争い幕府に訴えた。幕府は文治2年1月20日の鎌倉殿下文をもつ田部太子に地頭職を認め,また貞富・多布原村は吉富名内であることを確認した。次いで貞永元年閏9月9日の守護所下文,17日の武藤資能書状(同前)によれば,大和太郎兵衛尉時景が吉富名内の名主・作人等が地頭に従わないと訴えた。これに対して鎮西奉行少弐資能は六波羅下知状をうけて有力名主の一人,成恒大三郎国守と大和時景を大宰府に召喚,対決させることにした。田部太子が大和時景に吉富名の地頭職を譲るか売却したのだろう。しかし寛元元年9月21日の将軍家政所下文案(末久文書/鎌遺6237)によれば,大神俊綱は母田部太子の承久元年8月16日の譲状をもって吉富名地頭用田内10町と散在名田10か所の地頭職を安堵されており,これからすると大和時景は吉富名の一部の地頭職を有していたことになる。その後,俊忠の子息上毛郡司小大夫入道蓮上が公田吉富名の名主たちが名田畠在家等を濫妨し地頭の命令に従わないと幕府に訴えた。大宰少弐藤原資能は,名主の一人山田観蓮を召し進めたが,正嘉2年6月17日の山田観蓮請文(同前/天満宮史料8)によると,観蓮の舎兄故成恒太郎入道西迎が吉富領内の於勤二郎丸・秋成名・是末名・多布成末名以下の名田を質地や売買地として田部太子から取得し弟の観蓮が相伝知行していたが,大神俊綱らが延応年間に謀計して故遠江守殿に寄進してしまったのだという。故遠江守殿とは執権北条泰時の弟名越朝時のことと思われる。郡司蓮上と大神俊綱が和与して吉富名惣地頭職を北条氏一門に譲り,その代官となって名主たちを支配しようとしたのだろう。この時吉富名の名主のうち山田観蓮・熊井兵衛尉信高・女院垣政所原井四郎・底無藤太入道・高瀬又太郎・中村左近入道は守護の催促にも従わず,御蔵大夫真助・清三郎恒蔵・宮時入道明阿は地頭に従うことを誓った。これらの名主のうち山田観蓮は宇都宮一族成恒氏,熊井信高は現大分県下毛郡三光村佐知あたりの御家人,高瀬又太郎は現大分県中津市高瀬の御家人,宮時明阿は現大分県中津市島田あたりの名主と考えられるから,当時吉富名内の小名田が広範囲に売買されていたことがわかる。弘長2年11月日の沙弥蓮上申状(同前/鎌遺8900)で山田観蓮が吉富領内の秋成名を濫妨,更に蓮上の私領是末名内字森田2反を新儀押領しているので,これを停止するよう訴えている。建治3年11月日の豊前吉富地頭代公信重申状案(同前/同前12927)によれば,吉富名は名越女房御領と見えるから,依然として北条氏一門領であったことになる。公信は山田左衛門尉政範と郎従中八刑部泰次が吉富領内秋成・底無・次郎丸・同大中島作畠7反を押領し,5度の召文にも応じないから,この地を地頭に引き渡して欲しいと訴えている。なお鎌倉末期の嘉暦3年神官池永重頼解状(野中文書/大分県史料8)の証判者に「上毛郡司田部忠通」が見え,その裏書に「ひろつの小太郎」と見える。これが広津氏の初見であり,彼は上毛郡司職を所持する宇佐宮庁内役人田部氏一族であった。戦国期では天文24年1月18日の勝屋重為給地坪付(緒方文書/大分県史料8)に「小畠一所三反,吉富名内豊田大蔵丞,定銭九十文充納之」と見える。同所は永禄7年7月7日緒方鎮盛下作銭譲状(同前)で豊法師丸に譲られている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7444128
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ